17話 不穏な学園生活 その2
同じ日の放課後。
御沙希は、学園近くにある図書館の窓際の席で本を読んでいた。
この図書館は明星学園と深い関わりを持つ施設で、全国的にも有名な蔵書量を誇っている。近年では珍しく、電子化されていない紙の書籍を中心に据えた場所であり、静寂を好む生徒や研究者が足繁く通っていた。
ページをめくる音すら、周囲では控えめに響く。
そんな静かな空気の中で――御沙希の指が、ふと止まった。
(……今の)
理由は分からない。
ただ、背中をなぞるように冷たいものが這った。
誰かに見られているような、それでいて視線とは違う、もっと原始的な違和感。
御沙希は顔を上げ、棚の並ぶ通路へ視線を向ける。人影はない。机の間にも、窓際にも、誰一人として立っていない。
(気のせい……ですよね)
そう自分に言い聞かせ、静かに息を整える。そして再び本へ視線を戻した。
――その直後、乾いた音が鳴った。
耳慣れない金属音に御沙希の肩がびくりと跳ねる。視線を上げると、天井付近にある照明を支える金属フレームが、わずかに歪んでいた。
「……?」
嫌な予感が確信へと変わり、御沙希は反射的に立ち上がると数歩、後退る。
次いで、重たい音とともに照明器具が落下した。
「……ッ!」
咄嗟に身を引く。
床に叩きつけられた照明は火花を散らし、焦げた匂いを漂わせていた。
「な、なんですか……!?」
心臓が早鐘のように打つ。
周囲を見渡すが、やはり人の姿はない。
(落下……? でも……)
御沙希は床に転がる照明を凝視する。
金具は壊れていない。
老朽化にしては、不自然すぎる。
まるで――上から叩き落とされたかのような。
嫌な予感が、背骨を伝って這い上がる。
(ここに……何かいます)
そう思った直後だった。
背後で、本棚が音を立てて揺れる。
「……ッ!?」
振り返るより早く、上段から分厚い本が雪崩のように落ちてきた。
「――ッ!!」
避けきれない。
そう悟った刹那。
「伏せろ!!」
低く、鋭い声が響く。
直後、御沙希の腕を掴む強い力に引き寄せられ、視界が反転した。そのまま床へ倒れ込むと、重たい衝撃音がすぐ耳元で連続して聞こえてきた。
さっきまで御沙希が立っていた場所には、本が山を成している。
「……っ、は……?」
息が詰まり、思考が追いつかない。
「大丈夫か」
声の方へ顔を上げると、亮太が身を挺して御沙希を庇っていた。その腕には、何冊もの本が当たった痕が赤く残っている。
「鬼龍院さん……?」
「動くな」
短く鋭い声。
亮太は立ち上がると、周囲を睨むように見渡した。その視線は人ではなく――気配そのものを探している。
(……間違いない)
何らかの能力、それも。
(視認不可能か)
照明や本。
どれも「落ちただけ」に見える。
だが――。
(今のは、完全に狙ってたな)
亮太は御沙希を背中に、庇うように立つ。
「怪我は?」
「……ありません。でも……」
御沙希は言葉を選ぶように、わずかに視線を伏せた。
「事故……じゃ、ないですよね?」
「……ああ」
亮太は肯定した。
その顔には、冷や汗が滴っている。
「けれど、周りにはそう見えているよ」
「……ですよね」
亮太は横目で彼女を見た。
(……この子、気づいてるな)
能力か、直感か。
いずれにせよ、只者ではない。
微かな音が響き、空気が擦れた。
「下がれ!」
亮太は即座に御沙希を突き飛ばす。
同時に、彼の立っていた床が抉れた。
「……ッ!?」
何も見えない。
歯を噛みしめ、亮太は周囲を確認する。
人はいない。
「御沙希ちゃん、走れるな」
「え……?」
「図書館を出ろ! 今すぐだ!」
わずかな躊躇。
だが、亮太の目を見て、御沙希は頷いた。
「……分かりました」
御沙希が駆け出す。
その背後で窓ガラスが割れ、内側へ飛び散る破片を亮太が腕で防いだ。
「チッ……!」
(警告か。いや、牽制だな)
亮太は誰もいない空間へ、低く告げる。
「これ以上やるなら、俺が相手になってやる!!」
だが、張りつめていた空気が、わずかに緩んだ。
(……引いたな。今は戦う気はないと)
目を細めて舌打ちし、亮太は御沙希を追って外へ出る。
「鬼龍院さん……今の、何だったんですか?」
「……さぁな?」
亮太は肩をすくめて、答えた。
「……」
御沙希は、それ以上聞けないと判断していた。直感が、そう告げていたからだ。
「今日は、もう帰れ」
「……はい」
図書館を出ると、夕方の風が二人の間を抜ける。
さきほどまでの張り詰めた空気が嘘のように、校舎からは部活帰りの生徒たちの声が聞こえてきた。
「……送るよ」
「え……?」
「一人で帰すわけにはいかないからな」
有無を言わせぬ口調だった。
御沙希は小さく頷き、亮太の半歩後ろを歩く。
(……まだ、いるな)
視線は感じない。
気配も、殺意も、もうない。
それでも亮太は、まだ近くにいるような感覚を拭えなかった。
校門の方角を一瞥すると、そこには何事もない放課後の景色が広がっている。
「……さっきの、あれ」
歩きながら、御沙希がぽつりと口を開く。
「私、見えませんでした。でも……分かりました」
「……何がだ」
「見せないようにしてるって」
亮太の足が、ぴたりと止まった。
「……勘がいいな」
「昔から、よく言われます」
冗談めかした声だったが、視線は前を向いたまま。
「鬼龍院さん」
「なんだ」
「……私、何かに巻き込まれてますか?」
直球だった。
亮太は少しだけ考え、やがて答える。
「巻き込まれた、というより――」
「……ッ?」
「最初から君を狙っていた可能性がある」
御沙希は息を呑んだ。
「理由は、まだ分からない」
「……まだ、ですか」
「ああ」
亮太は校門を抜け、通学路へ足を踏み出す。
「だが、今日の件は偶然じゃない」
「……」
「安心しろ。少なくとも、帰りまでは俺がついてやるよ」
御沙希は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。
*****
次の日の放課後。
亮太は、校舎と中庭を繋ぐ渡り廊下に立っている。
人の流れが落ち着くこの時間帯は、妙に落ち着かない。
理由は分かっていた。
(……来るよな)
心の中でそう思った直後、階段の方から軽い足音が聞こえる。
「……鬼龍院さん」
振り返ると、御沙希がそこにいた。
本を胸に抱え、少しだけ遠慮がちな距離を保って立っている。
「昨日は……改めてお礼を言います。……ありがとうございました」
丁寧な言い方。
よそよそしいが、誠実な声音だった。
「助けてもらってなかったら、怪我してたと思います」
「……気にするな」
亮太は短く答えた。
それ以上何か言えば、余計なことまで口にしそうだったからだ。
しばしの沈黙。
御沙希は視線を泳がせ、意を決したように口を開く。
「その……鬼龍院さんって」
「……ん?」
「前にも、どこかで会ったこと……ありませんか?」
それを言われて心臓が、わずかに音を立てた。
(……聞くか)
亮太は、ほんの少しだけ目を伏せる。僅かに口元を歪ませて、
「いや。多分、ない」
即答する。
「……そう、ですよね」
御沙希は、少しだけ残念そうに笑った。
「変なこと聞いてすみません。なんだか、初めて会った気がしなくて。でも、あの鬼龍院の家の者ですよね」
「……そうだ。だが俺は使い捨ての養子だ。そう言った会議には呼ばれない」
視線を逸らして、答える。答えながら亮太の脳裏に、昔の光景が浮かんだ。
(……変わってない)
「だから、気のせいだ」
亮太は、そう言って話を切った。
「……そうなんですね。はい」
御沙希は少し悲しそうな顔をして、小さく頷く。
「それじゃ、失礼します」
軽く頭を下げ、歩き出す背中。
亮太は、その後ろ姿を見送りながら、無意識に拳を握っていた。
(俺のやることには関係がない。たまたま同じ学園、同じクラスになっただけだ。俺は鬼龍院の養子で軍人、あの子は神無月の長女の巫女)
亮太は踵を返し、歩き出す。
背後で、御沙希が一度だけ振り返ったことに、彼は気づかなかった。




