第三話 甲斐の虎
第三話 甲斐の虎
甲斐――躑躅ヶ崎館。
朝靄の中、武田の兵たちは静かに動いていた。
槍を整える者。
馬に鞍を付ける者。
旗を掲げる者。
戦支度は、すでに始まっている。
館の奥では、武田信玄が一枚の地図を見つめていた。
信濃。
幾つもの豪族。
山道。
城。
川。
その全てが、戦の駒となる。
「景虎は必ず川中島へ出る」
信玄は静かに言った。
側に控える山本勘助が頷く。
「はい。あの男は退きませぬ」
信玄は小さく笑う。
「義のため、か」
その声音には嘲りも軽視もなかった。
むしろ、理解しているようだった。
勘助は慎重に言葉を選ぶ。
「長尾景虎は、利では動きませぬ。故に厄介です」
「だから面白い」
信玄は軍配を手に取った。
その眼には野心が燃えている。
「天下を望むなら、越えねばならぬ山がある」
ゆっくりと歩き出す。
「景虎は、その山よ」
館の外へ出ると、赤備えの軍勢が並んでいた。
甲冑が朝日に赤く染まる。
兵たちは一斉に頭を下げた。
その中央を、信玄が進む。
背後には巨大な旗。
――風林火山。
風のように駆け。
林のように静まり。
火のように攻め。
山のように動かず。
兵たちの士気が一気に高まる。
「おおおおおッ!!」
地鳴りのような鬨の声。
その時だった。
一人の若武者が馬を飛ばして駆け込んでくる。
「申し上げます!」
砂煙を上げながら膝をついた。
「越後軍、動きました!」
場の空気が変わる。
信玄の目が細くなる。
「来たか」
勘助が地図へ視線を落とす。
「恐らく、川中島へ」
静寂。
そして信玄は、ゆっくり笑った。
まるで獲物を前にした猛獣のように。
「ならば迎え撃つ」
軍配が空を切る。
「出陣!」
その瞬間、法螺貝が鳴り響いた。
兵たちが一斉に動き出す。
馬の嘶き。
旗の波。
鳴り響く陣太鼓。
甲斐の虎が、ついに牙を剥く。
一方その頃――
越後軍もまた、山道を進んでいた。
先頭には、白い陣羽織を纏った男。
上杉謙信。
その背後で、“毘”の旗が風にはためく。
景虎は遥か南を見つめていた。
その先にいる男を。
宿命の敵を。
やがて龍と虎は、川中島で相まみえる。
戦国最大の激突が、今、始まろうとしていた。




