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不殺の包丁 ‐人斬り浪人が神田の片隅で振るう、奇跡の立て直し飯‐  作者: 葉山 乃愛


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第9話:「江戸城潜入の白装束と、受け継がれた包丁」

翌朝、江戸城の勝手方へと通じる平川門は、ただならぬ熱気と喧騒に包まれていた。



天下の将軍家、そして幕政を担う老中衆が一堂に会する「御前饗応」の儀。

失敗の許されない大舞台に向け、江戸中から選び抜かれた名店の板前や下働きたちが、厳しい改めを受けて続々と城内へと吸い込まれていく。



その列の中程に、真新しい白の料理着に身を包んだ三人の姿があった。



「……陣さん、心臓が口から飛び出そうよ」



お鈴が、前掛けの裾をぎゅっと握りしめながら息を潜める。

隣に立つ紅葉も、町娘風の地味な着物を纏いながら、周囲の警備の動線を鋭い視線で確認していた。



「落ち着け、お鈴殿。堂々としていれば、誰も疑わん」



陣は静かに前を見据えていた。

その腰には、さらしで巻かれた愛刀がしっかりと帯びられているが、上から分厚い料理着を羽織っているため外からは見えない。



やがて三人の番が来た。

門番の横で料理人たちの品定めをしているのは、勝手方の総元締めである御膳奉行の老職人、弥平やへいだった。

頑固一徹を絵に描いたような弥平の鋭い眼光が、陣の手元でピタリと止まる。



「……おい、お前さん。どこの板場から呼ばれた? なにより、自分の包丁箱すら持たずに城の勝手に入るつもりか」



昨夜の戦いで菜切り包丁を失った陣は、手ぶらだった。

周囲の料理人たちが「素人が紛れ込んだか」と嘲笑の目を向ける。



だが、陣は一歩も引かず、弥平の目を見返した。



「……道具の良し悪しに頼るようでは、真の馳走は作れませぬ。城の板場にあるものをお借りできれば、それで十分」



「なんだと? 天下の台所を舐めるなよ」



弥平が激昂しかけたその時、陣はスッと右手を差し出した。

分厚い豆と、幾重にも重なった剣ダコ。そして何より、手の甲に刻まれた古い火傷の痕。



それを見た瞬間、弥平の顔から怒りが消え、目を見開いた。



「お前さんのその手……。まさか、三年前の……」



弥平は何かを察したように周囲を見回すと、わざと咳払いを一つして門番に頷いた。



「……よかろう。手が足りねえところだ、奥の板場へ入れ。そこの娘二人も手伝いだな」



難関と思われた門をあっさりと抜け、お鈴と紅葉は信じられないという顔で陣を見上げた。



「陣さん、今の元締めさん、お知り合いなの?」



「……昔な。奥方様がご健在だった頃、よく勝手方で共に魚の鮮度を語り合った仲だ。どうやら、まだ見捨てられてはいないらしい」



三人が通されたのは、何十人もの板前が怒号を飛び交わせる巨大な厨房だった。

湯気と熱気が渦巻く中、陣は迷うことなく部屋の最奥、古い道具が置かれた棚へと向かった。



そこには、一本の使い込まれた出刃包丁が、油紙に包まれて大切に保管されていた。



「……やはり、残してくれていたか」



陣が包丁を手に取ると、背後から弥平が静かに近づいてきた。



「亡き奥方様が、いつかお前さんが戻った時のためにと手入れを命じておられたものだ。……陣、三年前に奥方様を手にかけたのは、本当はお前さんじゃねえんだろ?」



弥平の問いに、陣は深く頷き、懐からあの献立帳を少しだけ覗かせた。



「奥方様の無念を晴らしに来た。……今日の饗応の席で、すべてを終わらせる」



「そうか……。よし、台所衆はすべて俺が抑える。お前さんは存分に腕を振るってくれ!」



弥平の力強い後押しを受け、陣の纏う空気が一変した。



「お鈴殿、紅葉。仕込みを始めるぞ」



「はいっ!」

「……ええ、指示してちょうだい」



お鈴は持ち前の明るさと手際で、見知らぬ厨房でも堂々と立ち回り、野菜の皮むきや洗い物を完璧にこなしていく。

一方、紅葉は元刺客としての隠密の業を活かし、配膳の準備を手伝うふりをしながら、城内の不穏な動きを探り始めた。



陣は受け継がれた出刃包丁を握り、まな板の前に立った。

用意されていたのは、見事な真鯛。



タタタタタタッ!



厨房の喧騒を一瞬で静まらせるほどの、澄み渡った包丁の音が響く。

無駄な力が一切なく、まるで鯛そのものが喜んで身を委ねているかのような、神々しいまでの手際。



「すげえ……。あいつ、一体何者だ?」

他の板前たちが手を止め、陣の包丁さばきに魅入られる。



削ぎ切りにされた鯛の身は、まるで薄桃色の花びらのように美しく皿に並べられていく。

陣はそこに、奥方様から教わった秘伝の煎り酒を添えた。



だが、その時。

厨房の入り口から、足早に戻ってきた紅葉が陣の耳元に顔を寄せた。



「……陣、大変よ。総奉行であるあの男の配下たちが、老中衆に出される御椀の出汁に、何かを混ぜているのを見たわ」



「毒か?」



「おそらく、即効性のある痺れ薬よ。宴の席で反対派の老中たちの体の自由を奪い、一気に謀反を形にするつもりだわ」



お鈴が息を呑む。

「そんな……! せっかく陣さんが美味しいお料理を作っても、お城が血の海になっちゃう!」



陣はまな板を綺麗に拭き上げると、静かに目を閉じた。

やがて目を開けたその瞳には、氷のような静かな怒りが満ちていた。



「……悪意に塗れた味を、この神聖な膳に乗せるわけにはいかん」



陣は弥平を呼び寄せ、手短に事態を伝えた。



「弥平殿、すり替えられた御椀はどこへ?」



「すでに中室ちゅうしつへ運ばれた。あと半刻もすれば、将軍様と老中衆の御前に並ぶ……!」



「間に合う。……紅葉、お鈴殿。少しばかり荒療治になるが、手伝ってくれ」



陣は腰の料理着の帯を強く締め直した。

包丁を持った不殺の浪人が、ついに将軍家のお膝元で、強大な陰謀に真正面から斬り込む。



「極上の椀の味、拙者がとくと教えてやる」



熱気を帯びた厨房から、陣たちは足音もなく御膳の運ばれる広間へと歩みを進めた。

決戦の火蓋は、間もなく切って落とされようとしていた。


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