第8話:「決別の太刀と、御前饗応への招待状」
雨風が吹き荒れる古寺の本堂に、ゆっくりと足音を踏み鳴らして入ってきた男がいた。
濡れた黒装束に身を包み、身の丈をゆうに超える長尺の太刀を提げた男。
その双眸は、まるで底無し沼のように濁り、一切の感情を宿していない。
「……兄、様」
紅葉の口から、絶望に染まった震える声が漏れた。
男の名は玄馬。紅葉の実の兄であり、かつて陣が所属していた暗殺組織において、陣と双璧をなした筆頭頭領である。
「腑抜けたか、紅葉。あの男の首を持ち帰るのが、お前の役目だったはずだ」
玄馬の冷たい声が、本堂の冷気をさらに凍てつかせた。
「待って、兄様! 私たちは騙されていたの!
父上の汚名をそそぎ、お家を再興するなんて全部嘘よ!
あの主君は、ただの権力欲のために奥方様を殺し、私たちを道具として……!」
必死に叫ぶ紅葉。だが、玄馬の表情はミリほども動かなかった。
「それがどうした」
「え……?」
「真実など初めから知っている。我らのような日陰者が生き延びるには、絶対的な力を持つ者に飼い犬として仕える他はないのだ。
……主君に刃向かう道具は、ここで折る」
玄馬が長尺の太刀をスッと正眼に構えた。
その瞬間、息が詰まるほどの濃密な死の気配が広がる。
お家のため、父のためにと手を汚してきた自身の生き方を、たった一人の肉親に全否定された紅葉は、膝から崩れ落ちた。
「終わりだ、裏切り者よ」
玄馬が地を蹴る。
縮地とも呼べる神速の踏み込みから、紅葉の首筋へと無慈悲な白刃が振り下ろされた。
ガギィィィッ!!
耳を劈くような金属音が響き、火花が散る。
「……人の心を捨ててまで手に入れた太刀筋か。些か、軽すぎるな」
紅葉の前に立ち塞がり、玄馬の凶刃を受け止めていたのは陣だった。
右手には、先ほどまですいとんの具材を切っていた菜切り包丁が握られている。
「陣……。貴様、まだそのような玩具で戦うつもりか」
「玩具ではない。命を繋ぐための神聖な道具だ。
……お鈴殿、紅葉を連れて下がれ!」
陣の叫びと同時に、玄馬の猛攻が始まった。
豪雨の音すらかき消す、暴風の如き連続斬撃。
陣は包丁の峰を巧みに使い、致命傷となる一撃だけを最小限の動きで逸らしていく。
だが、相手は一流の暗殺者。そして陣の手にあるのは、あくまで鋼の薄い料理包丁だ。
ピキッ……。
不吉な音と共に、菜切り包丁の刀身に亀裂が走る。
「どうした! 抜かぬのか、陣!
その腰にある貴様の牙を抜かねば、娘たちごと肉片に変えるぞ!」
玄馬の挑発に、お鈴は息を呑んだ。
陣の腰にある、さらしで封じられた刀。それを抜けば助かるかもしれない。
だが、それは陣がこれまでの自分を捨て、再び「人斬り」に戻ることを意味していた。
「……抜かん」
陣の瞳に、揺るぎない覚悟の光が灯る。
「素材の持ち味を引き出し、活かすのが料理人の業。
お前のように、ただ切り捨てるだけの刃に、拙者の魂は砕けぬ!」
陣は限界を迎えた包丁をあえて手放し、素手で玄馬の懐へと飛び込んだ。
常軌を逸した行動に、玄馬の目が見開かれる。
陣は左手で玄馬の太刀の柄頭を正確に打ち据えて軌道を逸らすと、右手で先ほどの「焚き火の灰」を大きく掬い上げ、玄馬の視界へと放った。
「ぐっ……! 目眩しか!」
「まだだ!」
さらに陣は、熱いすいとんの汁が残る鍋を蹴り上げる。
飛び散る熱湯と灰の目くらまし。その一瞬の隙を見逃さず、陣の重い掌底が玄馬の胸板に深く突き刺さった。
ドンッ!!
「がはっ……!」
巨漢の玄馬が数歩、大きく後退する。
包丁すら使わない、周囲のすべてを「活かした」陣の立ち回りに、暗殺部隊の動きが完全に止まった。
「……見事だ、陣。だが、その手元にある献立帳を老中に届けるつもりなら、すでに手遅れだぞ」
胸を押さえながら、玄馬が血の混じった口元を歪めて嗤う。
「明日、江戸城にて将軍家と老中衆を招いた『御前饗応』の宴が催される。
……我が主君は、その饗応の総奉行。
宴の席で反対派の老中たちを一網打尽にし、幕府の実権を完全に掌握する手はずになっているのだ」
その事実に、陣の顔色がわずかに変わった。
今から通常の手段で告発しようとしても、明日の宴には間に合わない。老中たちが排除されれば、献立帳の証拠も闇に葬られる。
「もはや貴様らに逃げ場はない。江戸全土が、お前たちの墓場となるのだ」
玄馬が再び太刀を構え直そうとしたその時、本堂の屋根が一気に崩れ落ちた。
陣が先ほどの戦闘中、密かに建物を支える主要な柱に打撃を加え、限界を迎えさせていたのだ。
大量の瓦礫と雨水が敵と味方を分断する。
「行くぞ、お鈴殿、紅葉!」
陣は動けない紅葉を担ぎ上げ、お鈴の手を引いて裏口へと駆け出した。
背後から玄馬の怒号が響くが、崩落に阻まれて追手は来ない。
雨の降るけもの道を駆け抜けながら、陣の頭の中ではすでに「次なる一手」が組み立てられていた。
「……陣さん。明日、お城で大変なことが起きるのよね。どうするの?」
息を切らしながら尋ねるお鈴。
陣は足を止め、闇夜の先にある江戸城の方向を見据えた。
「決まっている。……お城へ行く」
「ええっ!? でも、お城は敵だらけよ!」
担がれていた紅葉が、涙の乾いた目で陣を見つめた。
「……馬鹿なこと言わないで。どうやってお城の奥深くまで入り込むつもり?」
陣は懐の献立帳を確かめ、かつてないほど不敵で、力強い笑みを浮かべた。
「将軍家と老中衆を招く宴の席だ。
当然、江戸中から腕利きの料理人が駆り出されているはず。
……潜入の手段なら、ここにある」
陣は己の分厚い手を見せた。
数々の美味を生み出し、人々を救ってきた料理人の手。
「奴らの陰謀ごと、拙者が江戸城の厨房で料理してやる。
……極上の仕込みの始まりだ」
舞台は神田の片隅から、ついに天下の中枢・江戸城へ。
過去と決別した不殺の浪人と、二人の娘たちの、天下分け目の大勝負が今、幕を開けようとしていた。




