第7話:「雨宿りのすいとんと、炙り出された真実」
神田から逃れた三人が向かったのは、江戸のはずれ、千住の外れにある打ち捨てられた古寺だった。
冷たい雨が降りしきる中、雨漏りのする本堂で、陣は手際よく小さな火を起こしていた。
煙が外に漏れないよう、湿った木を避け、風の通り道を計算し尽くした見事な焚き火だ。
「……ひっく。ごめん、陣さん。私、足手まといばかりで」
濡れた着物を絞りながら、お鈴が小さな声で鼻をすする。
住み慣れた家を焼かれ、突然の逃亡生活。十七歳の少女にとって、それはあまりにも過酷な現実だった。
「謝るな、お鈴殿。お主がいてくれたから、拙者は……人の心を保てている」
陣は静かに首を振り、風呂敷から少量の小麦粉と、道端で摘んできた野草を取り出した。
「こんな夜は、腹の底から温まるものがいい」
陣は小麦粉に水を加えて手早く練り、ちぎっては鍋の熱湯へと放り込んでいく。
味付けは、お鈴が台所から咄嗟に持ち出していた少量の味噌だけ。
飾り気のない、素朴な「すいとん」だ。
だが、陣が火から下ろした鍋からは、ただの味噌汁とは思えない、深く安らぐ香りが漂っていた。
「……お鈴殿、紅葉。熱いうちに食え」
木彫りの椀によそわれたすいとんを、お鈴は両手で包み込むように受け取った。
一口すすると、もちもちとしたすいとんの食感と、野草の爽やかな苦味が、味噌の甘みと見事に調和して口いっぱいに広がる。
冷え切った体が、内側からじんわりと解けていくようだった。
「美味しい……。なんだか、お母さんが作ってくれた味みたい」
お鈴の目から、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
陣は何も言わず、ただ静かに彼女の頭を撫でた。
そのやり取りを、紅葉は本堂の隅でじっと見つめていた。
彼女の椀にも、すいとんはよそわれている。
「……理解できないわ。あなたほどの実力があれば、私たちを見捨てて一人で逃げることなど造作もないはずよ」
紅葉はすいとんに口をつけることなく、鋭い視線を陣に向けた。
「三年前、主君を裏切り、一族の至宝である『秘伝の書』を奪って逃げた冷酷な男。
それが、私に教えられたあなたの姿よ。なのに……」
なぜ、自分のような刺客を助け、ただの町娘のために命を懸けるのか。
紅葉の問いに、陣は深く息を吐き、懐から古びた一冊の帳面を取り出した。
「お前たちが血眼になって探している『秘伝の書』とは……これのことか」
陣が差し出した帳面を、紅葉は警戒しながら受け取った。
表紙には何も書かれていない。そっとページをめくると、そこには……。
「……大根の煮付け? 鯛の潮汁……? なにこれ、ただの……献立帳じゃない!」
紅葉が声を荒らげる。
一族の至宝であり、恐るべき力が記されていると信じて疑わなかった『秘伝の書』。
それが、ただの料理の献立帳だったなど、到底信じられなかった。
「そうだ。それは、かつての主君の正妻……拙者に料理の喜びを教えてくれた、奥方様が書き残したものだ」
陣の瞳に、深い悲しみが宿る。
「三年前、あの男……今の幕府要職に就いている男は、己の権力闘争のために、邪魔になった奥方様を毒殺した。
そして、その罪を拙者に着せようとしたのだ」
「そ、そんな……! じゃあ、あなたは奥方様を殺してなど……」
「拙者は奥方様を守れなかった。せめて彼女の生きた証であるこの献立帳を守るため、すべてを捨てて逃げたのだ」
紅葉は呆然と帳面を見つめた。
自分が今まで信じ、命を懸けてきた忠義は、すべて嘘で塗り固められていたというのか。
だが、陣は帳面を取り返すと、奇妙なことを言った。
「しかし、奴らがただの献立帳のために、ここまで執拗に追ってくるのは解せぬ。
……紅葉、お前は暗号の訓練を受けているな。このページを、火の光で透かしてみろ」
陣に言われるがまま、紅葉は帳面の一枚を焚き火の光にかざした。
「……っ!?」
紅葉の顔から、さっと血の気が引いた。
光に透かされた文字。
献立の食材の頭文字、そして分量の数字。
それらが複雑に組み合わさり、裏のページに書かれた別の文字と重なることで、一つの巨大な「名簿」が浮かび上がっていたのだ。
「これ、は……! 賄賂の記録! それに、暗殺の指示書……!」
「やはりか。奥方様は、あの男の悪事に気づき、この献立帳に密かに証拠を書き残していたのだ。
奴らが恐れているのは、この帳面が白日の下に晒されること」
点と点が繋がり、一つの巨大な線となった瞬間だった。
この帳面があれば、幕府を牛耳ろうとするあの男を完全に失脚させることができる。
「陣さん、それなら……これをお奉行所に持っていけば……!」
お鈴が希望を見出したように顔を上げる。
だが、陣は首を横に振った。
「今の奉行所は、すでに奴らの息がかかっている。
同心の菅野殿のような真っ当な者もいるが、迂闊に持ち込めば彼まで殺されるだろう」
圧倒的な権力と暴力が、三人を完全に包囲している。
だが、陣の目には、決して消えない静かな炎が宿っていた。
「……逃げるのは、もうやめだ」
陣は立ち上がり、腰の刀に手を置いた。
さらしで固く封じられた、不殺の誓い。
「この帳面を、直接、老中の元へ届ける。……力ずくでな」
江戸の闇を切り裂くための、決死の反撃。
その途方もない宣言に、お鈴と紅葉は息を呑んだ。
だが、三人が決意を固めたその時。
ヒュッ!
闇夜を裂いて飛んできた一本の黒い矢が、陣のすぐ横の柱に深く突き刺さった。
「……追手か」
本堂の外、雨の降りしきる闇の中に、無数の殺気が蠢いている。
紅葉の部下たちではない。本物の、血に飢えたプロの殺し屋たちの気配だ。
「陣……。お前の首、確かに見つけたぞ」
雨音を切り裂くように響いたその声に、紅葉が弾かれたように振り向いた。
「嘘……。どうして、あの人がここに……!」
絶望に顔を歪める紅葉。
陣は包丁を抜き放ち、お鈴を背中へと庇った。
雨の古寺は、血塗られた戦場へと姿を変えようとしていた。




