第6話:「焦げた握り飯と、敵への慈悲」
火事は、町火消たちの必死の消火活動によって、明け方にはようやく鎮火した。
鈴屋は、陣の機転と働きによって類焼を免れたが、隣の空き家は無残な骸を晒している。
煤にまみれた土間で、お鈴は震える手で茶を淹れていた。
その視線の先には、濡れ縁に横たえられた紅い装束の女――紅葉がいる。
「……陣さん、その背中。やっぱりひどい火傷じゃない」
お鈴が痛ましそうに声を上げる。
陣の着物の背は大きく焼け焦げ、赤く腫れ上がった肌が露出していた。
「気にするな。これくらい、かつての戦場に比べれば、掠り傷にもならん」
陣は表情一つ変えず、手際よく「握り飯」を作っていた。
火事の混乱で食材も乏しく、米の表面には少しばかり煤が混じり、底の方は火の勢いで焦げてしまっている。
だが、その焦げた香ばしさが、かえって疲弊した心に食欲を呼び起こした。
「……う、ううん……」
微かな呻き声と共に、紅葉が目を開けた。
彼女は瞬時に飛び起きようとしたが、全身を走る激痛に呻き、再び倒れ込む。
「動くな。無理に動けば、傷が開くぞ」
陣が静かに声をかけると、紅葉は憎しみを込めて彼を睨みつけた。
「……なぜ助けたの。私を殺して、どこかへ捨てればよかったでしょう。
私はあなたの敵よ。あなたの過去を知り、あなたの命を狙う刺客なのよ!」
紅葉の声が、無人の土間に虚しく響く。
陣は無言で、出来立ての焦げた握り飯を彼女の前に差し出した。
「……食え。毒は入っていない」
「誰がそんなもの……っ!」
「食わねば、拙者を殺す力も湧かぬだろう。
お前の主君は、空腹の部下に剣を振るわせるような男だったのか?」
その言葉に、紅葉は絶句した。
彼女の脳裏に、冷酷な命令だけを与え、失敗すれば容赦なく切り捨てる主君の顔がよぎる。
紅葉は震える手で握り飯を掴み、泥にまみれた顔でかぶりついた。
「……っ、熱い……。苦い……」
煤の苦味と、焦げた米の香ばしさ。
そして、その奥に隠された、驚くほど優しい塩の加減。
紅葉の瞳から、一筋の涙が溢れ、頬の汚れを洗った。
「……ねえ。どうして、こんなに温かいの」
「料理は鏡だ。作り手の心が出る。
拙者はもう、誰かを恨んで料理を作ることはやめたのだ」
陣はそう言うと、お鈴に向かって頷いた。
お鈴は意を決したように、紅葉の枕元に歩み寄り、彼女の冷え切った手を握る。
「紅葉さん、だったっけ。
陣さんはね、あんたを助けるために火の中に飛び込んだのよ。
理由なんて、それだけで十分じゃない」
紅葉は唇を噛み締め、俯いた。
殺すべき対象から与えられた温もり。それが、彼女が今まで信じてきた「忠義」という名の檻を、内側から溶かしていく。
その時、表から慌ただしい足音が近づいてきた。
「陣! お鈴! 無事か!」
駆け込んできたのは、同心の菅野佐馬之助だった。
彼は焼け跡と、そこにいる紅葉を一瞥し、すべてを察したように溜息をついた。
「……騒ぎが大きくなりすぎたな。
火付盗賊改の連中が、この火事を『浪人の不始末』として片付けようとしている。
上の奴らは、どうしても貴様を悪者に仕立て上げたいらしい」
菅野は陣に近づき、声を潜めて続けた。
「陣、これを持って行け」
菅野が差し出したのは、古びた通行手形だった。
「神田を離れろ。このままでは、お鈴も巻き添えを食う。
奴らの狙いは、貴様が持っているとされる『秘伝の書』……
いや、貴様の存在そのものを消すことだ」
お鈴の顔が青ざめる。
陣は手形を見つめ、それからお鈴と紅葉を交互に見た。
「……逃げれば、罪を認めることになります」
「死ねば、それすら言えなくなるぞ。
いいか、これは拙者個人の独断だ。
今の奉行所には、正義など残っていない。だが、美味い飯を作る男を死なせるのは、江戸の損失だ」
菅野の不器用な優しさに、陣は短く「かたじけない」と答えた。
伏線は、今や線となって繋がり始めていた。
地上げ、刺客、そして「秘伝の書」を巡る幕府内部の抗争。
陣が江戸の片隅で守ろうとした平穏は、今や崩れ去ろうとしている。
「……お鈴殿、準備を。少しばかり、遠出をすることになりそうだ」
「……うん。どこまでもついて行くよ、陣さん」
お鈴は力強く頷いた。
そして、紅葉もまた、よろめきながら立ち上がる。
「……私も、行くわ。
あなたの料理がなぜこんなに温かいのか、それを見極めるまでは、死なせてあげない」
新たな奇妙な一行が、灰色の煙たなびく神田を後にしようとしていた。
陣の腰にある、さらしに巻かれた刀。
それが抜かれる時、江戸の町に何が起こるのか。
そして、陣が隠し持っているという「秘伝の書」の正体とは。
物語は、神田の日常から、江戸全土を巻き込む逃亡劇へと変貌を遂げていく。




