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不殺の包丁 ‐人斬り浪人が神田の片隅で振るう、奇跡の立て直し飯‐  作者: 葉山 乃愛


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第5話:「真夜中の包丁研ぎと、忍び寄る業火」

「……ふぅ。お鈴殿、ようやく寝たか」



夜も更け、神田の町が寝静まった頃。

陣は一人、台所の板間に座り、砥石に向き合っていた。



シュッ……。シュッ……。



静寂の中に響くのは、鉄と石が擦れ合う、どこか心地よい音だけだ。

彼の手にあるのは、昼間お鈴が「切れ味が落ちた」とこぼしていた安物の菜切り包丁。



だが、陣が研げば、それは一国の主が欲しがる名刀のごとき輝きを帯びる。

陣はふと、自らの右手の甲を見つめた。

そこには、三年前の「あの日」に刻まれた、大きな火傷の跡が薄く残っている。



(あの火の海から、拙者が持ち出したのは『秘伝の書』などではない……)



陣が守り抜いたのは、ただ一冊の古い献立帳だった。

それは、彼がかつて仕えていた主君の正妻――料理を愛し、陣に包丁の握り方を教えてくれた、今は亡き姫の形見。



「陣さん……? まだ起きてるの?」



不意に背後から声をかけられ、陣の肩が微かに揺れた。

階段を降りてきたお鈴が、眠そうに目を擦りながら立っている。



「お鈴殿、起こしてしまったか。……包丁を研いでいただけだ」



「熱心だねぇ。でも、あんまり根を詰めないでよ? 陣さんが倒れたら、うちのご飯、また干からびた大根に戻っちゃうんだから」



お鈴は茶化すように笑い、陣の隣にちょこんと腰を下ろした。

彼女の視線が、陣の腰にある「さらしで巻かれた刀」に止まる。



「ねえ。その刀、本当に一度も抜いてないの? 私、陣さんが刀を振るところ、想像できないんだ」



「抜かぬと決めた。……拙者は、もう十分に人を壊してきた。これからは、作る側でいたいのだ」



陣の言葉には、抗いようのない重みがあった。

お鈴はその瞳の奥にある深い孤独を察し、そっと彼の袖を引こうとした。



その時だった。



クン、と陣の鼻腔が微かな「違和感」を捉えた。

夜風に乗って漂ってきたのは、湿った夜の匂いではない。

何かが焦げる、鼻を突くような嫌な匂い。



「……お鈴殿、下がっていろ」



陣の顔から温和な色が消え、一瞬で「戦鬼」の表情に戻る。



「えっ、何? どうしたの?」



「火だ。……それも、ただの失火ではない。油の匂いがする」



陣が表の戸を開けると同時に、夜空が赤く染まった。

隣の空き家から、猛烈な勢いで火の手が上がっている。

ただの火事ではない。家の周囲に油を撒き、一気に焼き払おうとする「確信犯」の仕業だ。



「ひっ……! 火事! 陣さん、逃げなきゃ!」



「待て。表に誰かいる」



火柱の向こう側、ゆらゆらと揺れる影の中に、数人の男たちが立っていた。

それは第4話で同心の菅野が警告していた、地上げを企む「要職の者」が放った私兵たち。



その中心にいるのは、第3話で姿を見せた紅い刺客、紅葉だった。

彼女は苦しげに顔を歪めながらも、部下たちに命じている。



「……鈴屋を包囲しなさい。陣を燻り出すのよ」



陣は、震えるお鈴を背中に隠し、台所の菜切り包丁を握りしめた。

刀は抜かない。だが、この一本の包丁が、今の彼の魂そのものだった。



「お鈴殿、濡れ手拭いを口に当てろ。……拙者が道を切り拓く」



「でも、相手は刀を持ってるわ! 陣さんは包丁一本でどうするの!?」



陣は答えず、火の粉が舞い散る中へと踏み出した。



男たちの一人が、嘲笑いながら刀を振り下ろす。

「死ねぇ、浪人!」



だが、陣の動きは炎の揺らめきよりも速かった。

包丁の峰を使い、相手の腕の急所を叩く。



「ぐあぁっ!?」



刀が地面に落ちる。陣は止まらない。

舞い踊るような足捌きで、次々と刺客たちの武器を弾き飛ばし、その戦意を削いでいく。

それはもはや戦闘ではなく、食材を丁寧に「捌く」ような、洗練された芸術だった。



「紅葉! やめろ! お前はこんなことのために剣を学んだのか!」



陣の怒号が炎を裂く。

紅葉は唇を噛み切り、叫び返した。



「……私には、これしかないの! 家を、父の名誉を取り戻すには、あなたの首を……!」



紅葉が苦無を構えて突進する。

だが、その時。



崩れかけた空き家の梁が、轟音と共に紅葉の真上から落ちてきた。



「紅葉!」



陣は迷わず跳んだ。

自身の身を顧みず、炎の中に飛び込み、彼女の細い体を抱き寄せる。

直後、巨大な火柱が二人を飲み込んだ。



「陣さん!!」



お鈴の悲鳴が夜の神田に響き渡る。



黒煙が立ち込める中、男たちは勝利を確信した。

しかし、煙の奥から、ゆっくりと人影が歩み出てくる。



そこには、背中に火傷を負いながらも、紅葉をしっかりと抱きかかえた陣の姿があった。



彼の右手に握られていた包丁は、熱を帯びて赤く輝いている。

そして、その瞳には、今まで見せたことのない激しい「覚悟」が宿っていた。



「……お鈴殿、すまない。今夜の晩飯は、少し焦げた味になるかもしれん」



陣は意識を失った紅葉をお鈴に預けると、立ち塞がる刺客たちを見据えた。



「一人も、生かしては返さん。……と言いたいところだが、命までは取らぬ。

代わりに……その汚れた根性を、根こそぎ叩き直してやる」



炎に照らされた陣の背中は、かつての修羅そのもの。

だが、その手にはまだ、さらしに巻かれた刀が、沈黙を守り続けていた。



江戸の夜を焼き尽くす陰謀の火は、まだ消えそうにない。

陣の過去と、お鈴の日常が、今まさに炎の中で激しく交錯しようとしていた。


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