第4話:「黄金の出汁と、奉行所の影」
翌朝、神田の空は抜けるような青さに包まれていた。
鈴屋の台所では、陣が大きな鍋を前に、静かに目を閉じていた。
立ち上る湯気は、昨日までのそれとは明らかに違う。
雑味の一切ない、深く、澄み渡った海の香りが土間に満ちていた。
「……よし。良い出来だ」
陣が手桶で掬い上げたのは、黄金色に輝く「一番出汁」だった。
土佐の極上鰹節と、北国の利尻昆布。
わずかな賃金の中から、陣が自ら市場へ足を運び、目利きして選んだ最高級の素材だ。
「お、おいしそう……。陣さん、それ何に使うの?」
寝ぼけ眼のお鈴が、鼻をひくひくさせながら台所にやってきた。
寝癖のついた髪を直そうともせず、黄金の液体に釘付けになっている。
「今日は、江戸で一番贅沢な朝粥を作ろうと思ってな。
お鈴殿、昨日の冷や飯を水で洗っておいてくれ。粘りを出さぬよう、丁寧にな」
「えー、朝からそんなに凝るの? 損料屋の朝ごはんにしては贅沢すぎない?」
お鈴は文句を言いつつも、陣の隣で楽しそうに手を動かす。
二人の間に流れる空気は、まるで本当の兄妹のように温かい。
だが、その平穏を破るように、表の戸が重々しく叩かれた。
「……御用だ。八丁堀の者だが、主はいるか」
お鈴の肩がビクッと跳ねた。
「御用」という言葉は、江戸の町民にとって死神の宣告にも等しい。
土間に現れたのは、茶褐色の着流しに十手を差し、鋭い眼光を放つ男だった。
北町奉行所の同心、菅野佐馬之助。
「お、お役人様……。何か、うちが悪いことでも……?」
お鈴が震える声で尋ねるが、菅野の視線は彼女を通り越し、奥で鍋を握る陣に注がれた。
「……貴様が、近頃この長屋に入り込んだという素浪人か。
昨夜、この裏手で男が一人、叩き伏せられた。
その男、実は奉行所が追っていた『思い出泥棒』の一味でな」
菅野は一歩、土間に足を踏み入れた。
その歩みは力強く、剣の心得がある者特有の無駄のない動きだ。
「下手人は桶一つで相手を無力化したという。
……ただの浪人の仕業とは思えん。陣と名乗ったか。貴様、何者だ?」
緊張が走る。
お鈴は陣の前に立ち塞がろうとしたが、陣は静かに彼女を制し、菅野の前に椀を差し出した。
「……お役人様。お調べの前に、まずはこれを一杯。
朝の冷気に、お身体も冷えておられましょう」
差し出された椀の中には、先ほどの黄金の出汁をたっぷり含んだ、炊きたての粥。
中心には、陣が昨夜から仕込んでいたという、小さな梅肉が添えられている。
菅野は不快そうに眉を寄せたが、椀から立ち上る「暴力的なまでに芳醇な香り」に、思わず喉を鳴らした。
「……ふん、毒見のつもりか」
菅野は荒々しく椀を受け取り、粥を一口、口に運んだ。
瞬間。
菅野の表情が劇的に変わった。
「……なっ!?」
口の中で、鰹と昆布の旨味が大爆発を起こす。
粥の粒一つ一つが、出汁の恩恵を最大限に吸い込み、噛むほどに優しい甘みが広がる。
そして後から追いかけてくる梅の酸味が、脳を爽快に目覚めさせた。
「なんだ、これは……。出汁の引き方が、尋常ではない。
……まるで、雲の上で食事をしているような……」
鬼のような顔をしていた菅野の目尻が、みるみるうちに下がっていく。
一気に粥を啜り終えた彼は、ふぅ……と深く長い溜息をついた。
「……不覚だ。このような美味、一生に一度出会えるかどうか。
陣とやら、料理の腕だけで言えば、貴様は江戸中の料亭を潰せるな」
「恐縮です。……それで、お調べの続きは?」
陣が淡々と尋ねると、菅野は我に返ったように表情を引き締めた。
だが、その目には先ほどのような敵意はなかった。
「……昨夜の男の懐から、妙な書付が見つかった。
そこには、神田の長屋を買い叩き、大規模な蔵屋敷を建てる計画が記されていた。
その裏で糸を引いているのが……幕府の要職に連なる者だという噂がある」
菅野は周囲を警戒するように声を潜めた。
「陣。貴様が何者かは問わぬ。
だが、あの男を倒したことで、貴様は巨大な毒蛇の尾を踏んだ。
……気をつけることだ。お役所も、上からの圧力には抗えぬ場合がある」
菅野はそれだけ言い残すと、名残惜しそうに空の椀を見つめ、去っていった。
菅野の背中を見送りながら、陣の表情が険しくなる。
(要職に連なる者……。やはり、あの紙片の主か)
第2話で見つけた紙片の紋章。
それは陣がかつて仕え、そして裏切られた「あの家」の影を色濃く反映していた。
「陣さん……。あのお役人さん、何だか怖いこと言ってたね」
お鈴が不安そうに裾を掴む。
陣はその小さな手を、温かい出汁のついた手で包み込んだ。
「案ずるな、お鈴殿。……どんな敵が来ようと、不味い飯は食わせん」
陣はそう笑ってみせたが、その夜、彼は再びさらしの巻かれた刀を強く握りしめていた。
江戸の闇を流れる毒が、この小さな鈴屋を浸食しようとしている。
そして同時に、昨日出会った紅い刺客・紅葉の言葉が脳裏をよぎる。
『三年前、主君を裏切り、秘伝の書と共に姿を消した大罪人』
陣が守り抜こうとしているのは、お鈴との日常か。
それとも、過去から抱え続けている「何か」なのか。
神田の夜風は、どこか血の匂いを孕み始めていた。




