第3話:「隠し味の秘密と、紅い刺客
「お、重い……。陣さん、これ本当に全部運ぶの?」
神田の青物市場。
お鈴は、籠いっぱいに詰め込まれた旬の茄子や南瓜を前に、目を白黒させていた。
その後ろで、陣は涼しい顔をして、さらに大きな米俵をひょいと肩に担ぎ上げる。
「良い食材を選ぶのは、戦の陣形を整えるのと同じだ。……お鈴殿、その茄子は色が濃いものを選べと言っただろう」
「もう、厳しいんだから! うちは損料屋であって、お食事処じゃないのよ?」
お鈴は口を尖らせながらも、どこか楽しそうだった。
陣が来てからというもの、鈴屋には不思議と活気が戻っていた。
店先に漂う出汁の匂いに誘われて、近所の住人が「鍋を借りたい」と言いつつ、陣の作るまかないを一口ねだりにやってくる。
だが、そんな平穏な日常の裏側で、陣の神経は研ぎ澄まされていた。
(……さっきから、一人ついているな)
市場の喧騒に紛れ、一定の距離を保って自分たちを追う足音。
それは昨夜の「思い出泥棒」のような素人ではない。
呼吸の乱れが一切なく、気配を完全に殺した、熟練の者の歩みだ。
「お鈴殿。少し先に戻っていてくれ。……買い忘れた調味料がある」
「え? あ、うん。わかったわ。あんまり遅くならないでね、夕飯の支度があるんだから」
お鈴が人混みに消えていくのを確認すると、陣はあえて人通りの少ない、古い蔵が並ぶ路地へと足を踏み入れた。
湿った土の匂いと、静寂が辺りを包み込む。
「……出てきたらどうだ。鼠にしては、些か歩幅が広い」
陣が足を止め、静かに振り返る。
背後の屋根の上から、ひらりと一人の影が舞い降りた。
それは、鮮やかな紅い装束に身を包んだ、若く美しい女だった。
しかし、その瞳には、美しさに似合わぬ氷のような冷徹さが宿っている。
「……やはり、生きていたのね。霧隠の陣」
女の声が、冷たく路地に響く。
陣の表情が、一瞬だけ微かに強張った。
「その名は捨てた。……今の拙者は、ただの飯炊き浪人だ」
「笑わせないで。三年前、主君を裏切り、秘伝の書と共に姿を消した大罪人が、どの面を下げて包丁を握っているの?」
女は腰の後ろから、一対の苦無を抜き放った。
紅い衣が風に翻り、彼女の殺気が陣を射抜く。
「お前の首を持ち帰れば、私の家系は再興される。……覚悟しなさい!」
女が地を蹴った。
紅い閃光のような速さで、陣の喉元を狙って苦無が突き出される。
だが、陣は動かない。
腰の封じられた刀に手をかけることさえせず、ただ左手に持っていた「買い出しの葱の束」を、吸い込まれるような動きで差し出した。
ガッ!!
「なっ……!?」
鉄よりも硬い手応え。
女の放った鋭い一撃は、陣が手にした「ただの葱」によって完全に受け流されていた。
陣はそのまま円を描くように身を翻し、女の懐へと踏み込む。
「くっ……!」
女が後退しようとした瞬間、陣の右手が彼女の肩に軽く触れた。
ただの接触。だが、女はまるで大岩にぶつかったかのような衝撃を受け、そのまま背後の壁に縫い付けられる。
「……お前の剣には、迷いがある。紅葉、お前も本当は分かっているはずだ。あの主君が、どれほどの外道であったか」
「黙れ……! 武士に二言はない! 私は、私の忠義を貫くだけ!」
女――紅葉は必死に抗おうとするが、陣の放つ圧倒的な「圧」の前に、指一本動かすことができない。
陣は静かに彼女を解放すると、懐から小さな紙包みを取り出した。
「……殺したければ、いつでも来るがいい。だが、空腹では剣も鈍る。これは、今朝作った『鰹のふりかけ』だ。熱い飯にかけて食え」
「……な、何を……馬鹿にしているの!?」
紅葉の困惑をよそに、陣は背を向け、悠然と歩き出す。
「お鈴殿が待っている。……次は、もっとまともな殺気を練ってから来い」
陣の後ろ姿が角に消えるまで、紅葉はその場から動くことができなかった。
手の中には、温かな香りがする紙包みが残されている。
(何なの……あいつ。三年前より、ずっと……底が知れない)
一方、鈴屋に戻った陣を待っていたのは、膨れっ面のお鈴だった。
「遅い! 陣さん、調味料なんてどこにも持ってないじゃない!」
「すまない、お鈴殿。……途中で、懐かしい知人に会ってな」
陣はそう言って笑うが、その目は笑っていなかった。
紅葉が現れたということは、かつての組織が自分の居場所を突き止めたということだ。
そして、第2話で見つけた「名前の記された紙片」。
江戸を揺るがす大きな火種が、この神田の小さな損料屋を中心に燃え広がろうとしている。
その夜、陣は一人、暗い台所で包丁を研いでいた。
シュッ、シュッ、と静かに響く砥石の音。
「斬らぬと決めたが……守らぬとは決めていない」
月明かりに照らされた包丁の刃文は、まるで妖刀のように鋭く、美しく輝いていた。




