第2話:「朝靄の豆腐と、お節介な用心棒」
「ふわぁ……。よく寝た」
翌朝、お鈴が二階の寝床から下りてくると、土間からはすでに香ばしい匂いが漂っていた。
昨日までは埃っぽかった空気が、どこか瑞々しく、清々しいものに変わっている。
ふと見ると、土間は見違えるほど綺麗に掃き清められ、使い古された鍋や釜までが、新品のように鈍い光を放っていた。
「おはよう、お鈴殿。勝手に道具を拝借した」
竈の前にいた陣が、静かに振り返った。
その顔は昨日よりも血色が良く、精悍な顔立ちが際立っている。
「陣さん、これ全部あなたが? 損料屋の主より、よっぽど手際がいいじゃない」
お鈴は感心しながら、陣が差し出した椀を受け取った。
中には、透き通った出汁に浮かぶ、真っ白な豆腐。
「豆腐のすまし汁だ。朝は胃を温めたほうがいい」
一口啜った瞬間、お鈴の目が丸くなった。
豆腐は驚くほど滑らかで、出汁の奥深い旨味が口いっぱいに広がる。
「これ、ただの豆腐じゃないわね? どうやって作ったの?」
「角の豆腐屋が朝一番に引いた豆乳を、少し分けてもらった。火加減ひとつで、味は変わる」
陣は淡々と答えるが、お鈴は確信した。
この男、ただの料理好きではない。
素材の性質を見抜き、最高の状態を引き出す「極意」を知っている。
(それに、この落ち着きよう……。昨日までの行き倒れとは、とても思えない)
お鈴は椀を抱えながら、陣の腰にある、さらしで巻かれた刀に目をやった。
「ねえ、陣さん。その刀……いつからそうしてるの?」
陣の手が、一瞬だけ止まった。
だが、彼は表情を変えぬまま、静かに口を開く。
「三年前……、ある約束をした。この刀を抜くときは、拙者が拙者でなくなるときだと」
「約束……?」
問い返そうとしたその時、表の戸が遠慮がちに叩かれた。
「ごめんください。鈴屋さんは、開いてますかい?」
現れたのは、近所に住む職人の八五郎だった。
ひどく困り果てた顔をして、懐から小さな包みを取り出す。
「お鈴ちゃん、実は折り入って頼みがあるんだ。この簪を、一月ばかり預かってくれないか?」
それは、安物ではあるが手入れの行き届いた、可愛らしい銀の簪だった。
「八さん、これ奥さんのよね? どうしたの、急に」
「いやぁ……。実は最近、この長屋の周りでおかしな連中がうろついててな。
戸締まりをしっかりしてても、夜中に誰かが部屋を覗いてるような気がするんだ」
八五郎の話によれば、最近この界隈では、金目のものではなく「思い出の品」ばかりを狙う奇妙な泥棒が出没しているという。
お鈴は首を傾げたが、背後で話を聞いていた陣の目が、鋭く細められた。
「八五郎殿、その覗き見の気配……どのあたりから感じた?」
「えっ? あ、ああ、裏の路地にある、古い井戸のあたりからですが……」
陣は無言で立ち上がり、腰の刀の感触を確かめるように右手を置いた。
もちろん、刀は封じられたままだ。
「お鈴殿。簪は拙者が預かろう。店の用心棒として、最初の仕事だ」
「えっ、ちょっと陣さん!?」
止める間もなく、陣はふわりとした足取りで裏口から消えていった。
その歩みは、砂利を踏む音さえ立てない。
「……お鈴ちゃん。あのアニキ、何者だい? まるで、風みたいだったぜ」
八五郎が呆気にとられて呟く。
お鈴もまた、陣の後ろ姿を見送りながら、胸のざわつきを抑えられなかった。
その日の夜。
月が雲に隠れ、神田の町が深い闇に包まれた頃。
鈴屋の裏手、古井戸の影から、音もなく黒い人影が這い出してきた。
人影は慣れた手つきで長屋の窓枠に手をかけようとする。
だが。
「探し物は、これか?」
闇の中から、冷徹な声が響いた。
「ひっ……!?」
黒い人影が飛び退くと、そこには腕を組んで壁に背を預けた陣が立っていた。
その指先には、八五郎から預かった簪が弄ばれている。
「何奴だ……!」
人影が懐から短刀を抜き放つ。
だが、陣は動じない。一歩も引かず、ただ静かに、圧倒的な圧力を放つ。
「江戸の町を騒がす『思い出泥棒』。……いや、本当の目的は他にあるな?」
「……知った風なことを!」
人影が鋭い突きを放つ。
常人なら躱せない速さだが、陣は半身をかわすと同時に、右手に持っていた「豆腐屋の豆乳桶」を軽く振り抜いた。
ガツッ!
「がはっ!?」
重い水音が響き、不審者はその場に崩れ落ちた。
陣は封じられた刀に触れることすらなく、ただの桶一つで相手を無力化したのだ。
陣は倒れた男の懐を探り、一枚の小さな紙片を見つけ出した。
そこには、奇妙な紋章と、いくつかの名前が記されている。
「……やはりか。神田の長屋を狙っているのは、単なる泥棒ではない」
陣の瞳に、かつて戦場を揺るがした凄まじい光が宿る。
紙片に書かれた名前の一つに、陣は激しく反応した。
それは、彼が「二度と抜かぬ」と誓う原因となった、かつての主君に近い人物の名だった。
「陣さん!」
表からお鈴が駆けつけてくる。
陣は瞬時に殺気を消し、いつもの穏やかな浪人の顔に戻った。
「終わったよ、お鈴殿。……今夜はもう、ゆっくり寝るといい」
陣は足元に転がる男を冷たく見下ろした。
江戸の平和な日常の裏側で、巨大な陰謀の歯車が、静かに、だが確実に回り始めていた。
(拙者がここに流れ着いたのも……仏の導きか。あるいは、呪いか)
陣はお鈴に悟られぬよう、懐の紙片を深く押し込んだ。
伏線は、すでに江戸の闇に蒔かれている。
その芽を摘むのは、鋭い刀か、それとも温かい飯か。
陣の戦いは、まだ始まったばかりだった。




