表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
不殺の包丁 ‐人斬り浪人が神田の片隅で振るう、奇跡の立て直し飯‐  作者: 葉山 乃愛


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

10/19

第10話:「偽りの出汁と、不殺の真味」

江戸城の長い廊下に、衣擦れの音さえ許さない静寂が満ちていた。



陣、お鈴、そして紅葉の三人は、弥平から預かった銀の盆を掲げ、重厚な装飾が施された「中室」へと続く角を曲がった。



そこには、二人の屈強な侍が、門番のように立ち塞がっていた。

彼らは通常の城内警護の兵ではない。

総奉行の配下であり、その鋭い眼光は「毒を盛る現場」を守るための獣のそれだった。



「止まれ。これより先は、毒味役以外の手出しは無用だ」



一人の侍が、腰の刀の柄に手をかけた。

お鈴の喉が鳴る。

盆を持つ指先が、わずかに震えていた。



陣は無言のまま、一歩前に出た。

白装束の襟元から覗くその瞳は、厨房で見せた穏やかな板前のそれではなく、闇を裂く刃のような冷徹さを湛えている。



「……この御椀、やり直しを命じられた。出汁に雑味が混ざっていると、元締めが憤っておられる」



陣の声は低く、そして驚くほど堂々としていた。

侍たちは顔を見合わせ、鼻で笑った。



「雑味だと? 下っ端が口を挟むな。これは天下の将軍家へ供される高貴な味だ」



「高貴な味と、人の命を奪う味は、似て非なるもの……」



陣がそう呟いた瞬間、紅葉が動いた。



彼女は袖から小さな小石を弾き飛ばし、遠くの板戸をカチリと鳴らした。

侍たちの意識がわずかに逸れた刹那、陣は盆を片手で支えたまま、空いた左手で侍の腕を掴んだ。



「何っ……!?」



力でねじ伏せるのではない。

筋肉の継ぎ目、力の流れを完璧に把握した陣の指が、侍の腕の急所を的確に突いた。

侍は叫び声を上げる暇もなく、全身の力が抜け、膝から崩れ落ちた。



もう一人が刀を抜こうとしたが、今度は紅葉が背後から回り込み、その首筋に手刀を打ち込む。



音もなく倒れた二人を廊下の隅へ片付け、陣は「すり替えられた御椀」を手に取った。

ふたを開けると、立ち上る湯気の中に、微かな、しかし致命的な「苦味」の匂いが混じっている。



「……やはり。トリカブトの根を煮出した汁だ。即効性はないが、食せば半刻もしないうちに手足が痺れ、言葉を奪われる」



陣は迷わず、その毒入りの出汁を床に零すと、自らが仕込んできた「真の出汁」を御椀に注ぎ入れた。



「陣さん、急いで! もうすぐ配膳の時間が……!」



お鈴が焦燥に駆られて促す。

だが、陣の手は止まらなかった。



彼は懐から、お鈴が持っていた小さな塩の包みを取り出した。

それは、神田の鈴屋でいつも使っていた、安物だが雑味のない粗塩だ。



「……お鈴殿。お主が守ってきたこの塩が、今日は天下を救う隠し味になる」



陣は祈るように塩をひとつまみ落とした。

その時、廊下の奥から重厚な扉が開く音が響き渡る。



「御前饗応、第一の膳……運べ!」



響き渡る声。いよいよ、将軍と老中たちが待つ広間への配膳が始まった。



陣たちは息を殺して影に潜み、すり替えられた「正しい御椀」が運ばれていくのを見送った。

これで、老中たちが痺れ薬で無力化される最悪の事態は避けられるはずだ。



しかし、紅葉の表情は晴れない。



「……陣。これで終わりじゃないわ。

出汁の味が変わっていれば、あの男……主君はすぐに気づくはずよ。

毒が効かないと分かれば、力ずくで広間を血の海にするつもりよ」



「ああ、分かっている。……だから、拙者もあそこへ行く」



陣は、料理着の下に隠していた「さらしに巻かれた刀」に触れた。

それは、三年前から一度も抜いていない、不殺の象徴。



「陣さん、危なすぎるよ! 相手はお城の侍たちなんだよ!?」



お鈴が陣の袖を必死に掴む。

陣は優しくその手を解き、お鈴の目を見つめた。



「……お鈴殿。拙者は包丁で料理を作る喜びを、お主から教わった。

この喜びを守るためには、時として、斬らぬために刀を握らねばならん時がある」



陣の言葉には、迷いも恐れもなかった。

彼は紅葉に頷き、そしてお鈴に微笑みかけた。



「お鈴殿、お主は弥平殿のところへ戻れ。……紅葉、拙者の背中を任せてもいいか」



「……死なれたら、鰹のふりかけのレシピが聞けなくなるもの。守ってあげるわよ」



紅葉は少しだけ口角を上げ、懐の苦無を確かめた。



広間の中では、きらびやかな衣装を纏った将軍・徳川家斉と、厳格な面持ちの老中たちが、運ばれてきた御椀に手を伸ばそうとしていた。



その上座で、すべての糸を引く総奉行、九条正景くじょう まさかげが、醜い欲望を隠した笑顔で彼らを見つめている。



「……さあ、皆様。これぞ江戸の粋を集めた、至高の味にございます。存分にお召し上がりを」



九条の合図と共に、将軍がふたを開けた。



運命の瞬間。

毒を消した陣の出汁が、将軍の喉を通る。



果たして、その味は陰謀を暴く刃となるのか。

それとも、さらなる混乱を招く引き金となるのか。



広間のすぐ外、襖一枚を隔てた闇の中で、陣は抜かぬ刀の柄に、静かに手をかけた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ