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不殺の包丁 ‐人斬り浪人が神田の片隅で振るう、奇跡の立て直し飯‐  作者: 葉山 乃愛


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第11話:「静かなる宣戦と、記憶の出汁」

広間を支配していたのは、耳が痛くなるほどの静寂だった。



将軍・徳川家斉が、漆塗りの御椀を静かに口に運ぶ。

その傍らで、総奉行・九条正景は、自らの勝利を確信して口元を歪めていた。

毒が効き始めるまで、あと数拍。

老中たちが言葉を失い、崩れ落ちた瞬間に、用意していた「証拠」を突きつけ、彼らを謀反人として捕らえる手はずだ。



「……ほう」



将軍の口から、感嘆の吐息が漏れた。

九条の眉が、わずかに跳ねる。

痺れ薬が回れば、まともに声など出せぬはず。

だが、家斉は碗を置き、その瞳に驚きと懐かしさを湛えていた。



「この味……。三年前、今は亡き側室が作ってくれた、あの汁物に酷似している。

派手さはないが、素材の滋味じみが心の奥底まで染み渡るようだ。九条、これは誰が作った」



「え……。あ、は。それは、城内の勝手方たちが……」



九条の背中に冷たい汗が伝わる。

おかしい。出汁には確実に、言葉を奪う毒が仕込まれていたはずだ。

老中たちもまた、次々に「美味い」「心が洗われるようだ」と口にし、血色は良くなるばかり。



その時、広間の入り口を守る襖が、音もなく左右に開いた。



「……その味、覚えがございますれば」



凛とした声と共に歩み入ったのは、白装束に身を包んだ陣だった。

背後には、同じく料理着を纏ったお鈴と、影のように寄り添う紅葉が控えている。

九条の顔が、一瞬で土気色に変わった。



「貴様……! なぜここに……! 出会え! 乱入者だ、この不届き者を捕らえよ!」



九条の怒号に応じ、周囲の侍たちが一斉に刀を抜こうとする。

だが、陣は動じない。

彼は懐から、ボロボロになった一冊の献立帳を高く掲げた。



「将軍家のお目通り、失礼仕る。

拙者は三年前、九条殿の奥方様に仕えていた料理番、陣にございます。

将軍様、今お召し上がりの御椀……それこそが、三年前、九条殿が隠滅しようとした『真実の味』にございます」



「陣……だと? あの時の、逃亡した毒殺犯か!」



家斉の目が鋭く光る。

陣は静かに畳に膝をつき、献立帳を開いて差し出した。



「三年前、奥方様は毒殺されました。その犯人は拙者ではなく、自らの悪行を隠そうとした九条殿ご自身です。

この献立帳には、奥方様が命懸けで記した、九条殿による賄賂と暗殺の全記録が、料理の分量に擬(擬)して記されております。

先ほどの御椀の出汁の加減、そしてこの帳面に記された『塩』の分量を照合すれば、これが偽りでないことが証明されましょう」



「出鱈目を言うな! そんなもの、ただの料理人の妄想だ!」



九条が刀を抜き、陣へと斬りかかろうとしたその瞬間。

横から飛んできた一本の箸が、九条の腕の急所を正確に叩いた。



「がはっ……!」



箸を投げたのは、紅葉だった。

彼女は冷徹な眼差しで、かつての主君を見据えている。



「九条様。あなたの計算は、一つだけ間違っていました。

人の命を繋ぐために包丁を握る者と、人を殺すために剣を振るう者。

……その『覚悟』の差を、あなたは侮りすぎたのです」



将軍の合図で、中室に控えていた菅野佐馬之助たちが一斉に広間へ踏み込む。

九条の配下たちは、陣が事前に弥平と協力して仕掛けていた「料理人の罠」――床に撒かれた滑りやすい油や、視界を奪う煙によって、次々と無力化されていった。



「九条、大人しくせよ。貴様の悪行、この味と帳面がすべてを語っておる」



老中の一人が、毅然とした声で言い放った。

九条は狂ったように笑い出し、やがて床に崩れ落ちた。



一連の騒動が収まりを見せた頃、陣はお鈴の震える手をそっと握った。

お鈴は目に涙を溜めながら、陣の顔を見つめる。



「……陣さん。終わったの? 本当に、これで……」



「ああ。鈴屋の塩が、江戸を救った。お主の真心が勝ったのだ、お鈴殿」



陣の言葉に、お鈴は堪えきれず泣き出した。

だが、その平穏も束の間。

連行される九条が、陣の耳元で呪うような声を残していった。



「……終わったと思うな、陣。

あの帳面に記された名は、私だけではない。

……江戸の地下には、まだ数え切れぬほどの『腐った味』が潜んでいるぞ」



陣の眉がわずかに動く。

九条を背後で操っていた、さらなる巨大な影。

それは、幕府の重職のみならず、江戸の食文化そのものを食い物にしようとする、謎の組織「闇包丁」の存在を予感させるものだった。



事件は解決したが、陣たちの前には、より深く、より危険な江戸の闇が口を開けていた。



「……お鈴殿、紅葉。少し、腹が減ったな」



陣はいつものように穏やかな声で言った。

これから始まる新たな戦いを前に、三人は朝日が昇り始めた江戸城を後にする。



その腰には、再びさらしで封じられた刀。

そして手には、多くの命を救った一振りの包丁があった。

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