第12話:「再起の鰯と、闇から来た料理人」
朝靄に包まれた神田。焼き出された人々が仮小屋で身を寄せ合う中、陣たちは焼け跡となった「鈴屋」の前に立っていた。
建物は無残な姿だったが、不思議と三人の心は晴れやかだった。
お鈴は焼け残った土間を箒で掃き、紅葉は慣れない手つきで瓦礫を運び出している。
「陣さん、見て! この羽釜、まだ使えるわ。煤を落とせば、また美味しいご飯が炊ける!」
お鈴が煤だらけの顔で笑う。その明るさが、絶望に近い光景を希望へと塗り替えていた。
陣は無言で頷き、瓦礫の下からひっそりと守り抜かれた「包丁研ぎ石」を取り出した。
三年前、奥方様から授かったあの出刃包丁を研ぎ始める。
シュッ、シュッという一定のリズムが、神田の朝の空気に静かに溶け込んでいった。
「……紅葉、無理をするな。その手、まだ傷が癒えていないだろう」
陣が声をかけると、紅葉はビクリと肩を揺らし、慌てて袖で手を隠した。
かつては人を殺めるためだけに使われたその指先には、今、瓦礫で擦りむいた新しい傷が重なっていた。
「これくらい、なんでもないわ。……それより、これからどうするの?
九条を倒したとはいえ、あの献立帳にはまだ多くの名が記されていた。
江戸の闇は、私たちが思うよりずっと深いところに根を張っているわ」
紅葉の懸念は正しかった。
九条正景は氷山の一角に過ぎない。
利権のために食を汚し、人々を操る影の勢力。
「まずは、腹ごしらえだ。空腹では良い策も浮かばん」
陣はそう言うと、近くの市場で仕入れてきた安価な「鰯」を取り出した。
脂の乗った鰯は、庶民の味方だ。
陣は手際よく頭を落とし、指で身を裂いて骨を除く。
生姜を効かせた醤油に潜らせ、焼け残った七輪で一気に焼き上げる。
香ばしい匂いが漂い始めたその時、焼け跡の入り口に一人の男が立っていた。
男は三十前後、着古した着物を纏っているが、その背筋は定規のように真っ直ぐだった。
何より目を引いたのは、その男の手だ。
陣と同じように、節くれ立ち、数多の食材と戦ってきた者特有の重みがあった。
「……良い匂いだ。鰯の脂が、炭の熱で見事に花開いている」
男は静かにそう呟くと、三人の前で深々と頭を下げた。
「突然の訪問、失礼する。拙者は氷室と申す。
昨夜の江戸城での饗応……あの『真実の出汁』を口にし、居ても立ってもいられず参った次第」
陣の手が止まった。
城内の人間以外に、あの味の秘密を知る者がいるとは。
「氷室……。聞いたことがある。
かつて、西の都で『包丁一つで大名を変えた』と言われた伝説の料理人がいたと」
紅葉が警戒を強め、陣の前に一歩踏み出す。
氷室と名乗った男は、苦笑いを浮かべて懐から一通の書状を取り出した。
「警戒は無用。拙者は、陣殿……貴殿に警告に来たのだ。
貴殿が九条を失脚させたことで、眠っていた『闇包丁』の頭領たちが動き出した。
奴らは、江戸のすべての献立を支配し、意に沿わぬ料理人を次々と消している」
氷室の瞳には、深い悲しみが宿っていた。
彼は、闇包丁の刺客によって愛弟子を失い、自らも表舞台を追われた身だった。
「……闇包丁。九条も、その末端に過ぎなかったというわけか」
陣が低く呟く。
氷室は頷き、陣が焼いた鰯をじっと見つめた。
「彼らの次なる狙いは、この神田だ。
神田の食文化を根底から破壊し、安価で質の悪い毒を混ぜた食材を流通させようとしている。
そのための第一の刺客が、すでにこの町に潜んでいる」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、市場の方から悲鳴が上がった。
見れば、馴染みの八百屋や魚屋の店先に、不気味な「黒い包丁」が突き立てられている。
「……仕込みが始まったようだな」
陣は焼き上がった鰯を、お鈴と紅葉、そして氷室の前に差し出した。
「まずは食え、氷室殿。話はそれからだ。
拙者の鰯に、奴らの毒が勝てるかどうか……今ここで、その舌で確かめてもらおう」
不殺の浪人と、闇を知る料理人。
神田の焼け跡で交わされた一皿の鰯が、江戸を揺るがす巨大な食の戦争の、真の始まりを告げていた。
陣の腰にある刀のさらしが、微かに風に揺れる。
それはまるで、これから訪れる嵐を予感しているかのようだった。




