四 靄とそして
授業を終わらせるチャイムが鳴ると、藤木先生は背中を丸め、誰よりも早く教室を出て行った。
息を吹き返したように、教室内が騒がしくなる。居眠りしていた連中も、チャイムと同時に目を覚まして、嘘のように元気になっていた。
次の授業は移動の必要がない世界史なので、教室内は休み時間の割に人が多くて、動きづらかった。でもそれをかきわけて、僕は杉原さんのところへ向かった。休み時間は短いけれど、どうしても、さっき起きたことを相談したかった。
杉原さんの席の隣には北沢が座って、2人で楽しそうに喋っていた。この2人は結構、仲が良いようだ。邪魔するのは気が引けたけど、僕は声をかけた。
「あの、杉原さん。ちょっといいかな」
驚いた顔が2つ、僕を見上げた。
「新くん?どうしたの?」
「うん、ごめん。ちょっと話したいことがあるんだけど……」
ここじゃ言えない、という含みをもたせて、言葉を濁した。異世界のことなんだと、必死で目で訴える。……通じるかどうか、かなりあやしかったけど。
でも何か勘付いてくれたのか、杉原さんは頷いて席を立った。
「わかった、行こうか。――このみ、ちょっとごめんね」
「う、うん」
北沢はぽかんとした顔で、僕と杉原さんを交互に見た。
「……あの、2人ってさ、聞いていいのかわからないけど」
眼鏡を押し上げて、北沢は慎重な口ぶりで言った。
「結局、その……どうなってるの?」
僕と杉原さんは一瞬視線を交わらせて、同時に曖昧な笑みを浮かべた。
この質問には、僕は答えられない。沈黙を守る僕に代わって、杉原さんは困ったように首を傾げながら言った。
「うーん……。でも、まぁ、仲良しだよ」
なんだか、不思議な誤魔化しかただった。
困惑気味な北沢の視線に背を向けて、僕たちは教室を出た。
――僕と杉原さんの関係は、結局、どうなっているのか。
部活の連中に続いて、北沢からも聞かれてしまった。でもそんなこと、僕自身が一番知りたい。
もう付き合っていないことは確かだ。でも僕と杉原さんの繋がりは、以前よりも深くなったように思う。秘密を共有して、付き合っていた時よりももっと、特別な関係になった。ちょうど今、視線で通じあったように。
だから僕は、まだ望みがあると思うことができるのだ。
人の来ない場所を求めて、屋上へ続く階段を上る。もちろん屋上に出る扉には鍵がかかっていて入れないけど、その扉の前のスペースがちょうど、2人並んで座るのにいい具合なのだ。密談にはもってこいだった。
休み時間は少ない。階段に腰をおろして、僕はすぐに切り出した。
「さっき気づいたんだけど、あの剣から、声が聞こえるんだ」
「――声?」
杉原さんはぴくりと眉をひそめた。
「どんな声?何を言っていたの?」
心配げな早口で、杉原さんは尋ねる。僕は目を閉じて、首を振った。
「わからない。すごく小さな声だったから」
剣を呼び出す手順を、頭の中で踏んでいく。急がないといけないけど、焦ると空回りして失敗しそうだ。だからなるべく落ち着いて、スイッチを押すイメージをした。
握った手に重みを感じて、僕は目を開けた。「学校」という日常には全然似つかわしくない、銀の剣がそこにあった。
「すごい。もう完璧にコントロールできるんだね」
杉原さんが感心したように言ったけれど、僕は力なく首を振った。
「まさか。全然だよ」
さっきの授業でも、剣を出そうと思って出したわけじゃない。うっかり出てしまっただけだ。
不用意にこれを思い浮かべていた僕が悪いのかもしれないけど、場所もわきまえず出てこられて、本当に迷惑だった。コントロールなんて、冗談でもできる気がしない。
柄にはめこまれた「悪夢」色の玉に、慎重に触る。
「――まさかと思うんだけど、あの声はもしかしたら、『悪夢』のものなんじゃないかな……」
さっきからずっと、その可能性について考えていた。
魚の姿をしたあの『悪夢』は、消えたのではなくて、本当は隠れているだけじゃないのか?――例えば、この剣の中に。そして、また出てこようとしているんじゃないか。
だとしたらこんなもの、早く捨てなければならない。
そう思って唇を噛んだ時、また、声が聞こえた。
「――……」
ノイズ混じりの、小さな声だ。やっぱり不明瞭で何と言っているのか聞き取れないけど、人の声だと、はっきりわかった。
「この声だよ。どう思う?あの『悪夢』と、何か関係あるんじゃないかな――」
僕は杉原さんの方を振り向いた。――そしてぎょっとした。
杉原さんは凍りついたような表情で、剣を凝視していた。
今にも倒れそうなほど、顔色が真っ青だ。指先が白くなるくらい強く、ぎゅっと拳を握っている。
こんなにも緊張して、鬼気迫る様子の杉原さんを、僕は見たことがなかった。
「どうしたの?だい――」
大丈夫?と僕は尋ねようとした。でもその言葉は、杉原さんにぶつかられた勢いで、喉の奥に消えた。
体当たりするような勢いで、杉原さんが剣に掴みかかったのだ。僕の手から剣を奪おうとでもするような強さだった。突然の衝撃に、危うく壁に頭をぶつけそうになる。とっさに左手をついて、体を支えた。
ひどく驚いて、僕は杉原さんを見つめた。
杉原さんは僕の右手ごと、剣を抱きかかえるようにして持っていた。泣きだしそうに表情を歪めて、「悪夢」の色をした玉に、震える指先で触れる。
こんなに大切なものはないというような、想いのこもった手つきだった。
「――ヒトイ」
そっと、杉原さんがささやいた。
どうしたんだ、と僕は尋ねようとしたけど、その機会はまた失われた。
玉から、濁った色の靄が噴き出す。
その突風をまともに目に受けてしまって、僕は慌てて顔を背けた。いくらかその靄を吸いこんでしまって、咳きこむ。
濁った、暗い極彩色。忘れもしない、「悪夢」のまとっていた色だ。吸いこんではいけないものなんじゃないかと、すぐに不安になった。
「何だこれ。大丈夫だった、杉原さん」
咳きこみながら、僕はやっと目を開けて、杉原さんを見た。
杉原さんは、泣いていた。そして微笑んでいた。
靄はドライアイスのように足元に漂っていて、玉からもゆっくりとだけど、淀みなく湧き続けていた。でも剣を抱えている杉原さんには、全く何の影響もないようだった。「悪夢」色の煙なんかには目もくれず、彼女は一心にある一点を見上げていた。
その視線を追って、僕も杉原さんの正面にいるものを見た。
「……女?」
妙な格好をした女の人が、階段から数センチ浮いて、立っていた。
けれど、杉原さんと見つめ合うその人が女性ではないことに、僕はすぐに気づいた。
長めの明るい金髪を後ろでゆるく束ねていたから、女の人に見えたのだ。おまけに顔だけで判断しようとしたら、きれいな女性にしか見えなかった。でも首の太さと、体つきで、そいつが男であるとわかった。
呆然とする僕の前で、杉原さんは再びささやいた。
「……ヒトイ」
泣いているのに、声も表情も喜びに満ちていた。杉原さんはすがるように、その男に向って手を伸ばした。
それに答えるように、靄をまとった彼も微笑んだ。そしてそっと、2人は手を重ねた。
「……ヨウ」
低い声はあまりに優しかったので、僕には全てが、まざまざとわかった。
誤魔化しようもなく、目をそらすこともできなかった。
この世に2人しか存在しないように微笑み合う恋人たちを、僕はただ見ていた。
この場の邪魔者は、明らかに僕だ。
やっとわかった。僕は杉原さんにとって特別じゃない。秘密を共有しているのだと、彼女の力になれるのは僕だけなのだと浮かれていたけど、僕は、部外者だ。
すうっと冷えていくような虚脱感に、吐き気さえした。
目の前の男は、「あちら」の――杉原さんの「好きな奴」に、間違いなかった。