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第九十二話:『透明な檻、あるいは飢餓の暴走』


能美・第二階層の最深部。

ボスの放つ氷塊を、レンがその白銀の甲冑で無造作に弾き飛ばす。

あまりにも洗練された、暴力の不在。

カナはその背中を見つめながら、空になったストロングゼロのアルミ缶を、指の関節が白くなるまで握りしめた。


「レンさん! 私も、私も戦いたいです!」


カナの声が、湿った回廊に響く。

それは、レンへの歩み寄りであり、コウタへの熾烈な反逆だった。

「そのまま動くな」というコウタの呪縛を、自らの意志で、光の中へ踏み込むことで引きちぎろうとする「回避」の暴走。


「私らしく、この光の中で輝いてみたいんです。あんたの隣で、ちゃんとした『ハンター』として!」


カナは、レンの展開する『白銀の加護』の円環の中へ、自ら飛び込んだ。

瞬間、彼女の深層心理が物理的な異能となって溢れ出す。


身体強化――【飢餓のハンガー・ドライブ】。


コウタに「止めろ」と言われない絶望。彼が自分をレンに差し出したことへの、狂おしいまでの不満足感。

その「飢え」が、魔力コストを度外視してカナの筋力と反応速度を限界まで跳ね上げる。

視界が真っ赤に染まり、レンの『白銀の加護』さえも、彼女にとっては「獲物を閉じ込める檻」の輝きにしか見えない。


「素晴らしいよ、枷奈さん! 君のその魂、僕がさらに高みへと引き上げてあげる。さあ、僕の香りに身を委ねて!」


レンがカナの腰を引き寄せ、さらに密着させる。

その瞬間、暴力的なまでの「清潔」が、カナの鼻腔を真っ向から突き刺した。


花の蜜を煮詰め、高価なアルコールで消毒し、一分の隙もなく整えられた、非の打ち所のない「正解」の香り。


(っ、あ、が)


頭の奥を、熱い針で刺されたような痛みが走った。

あわない。

身体が、拒絶反応で悲鳴を上げている。


だが、カナの指先からは、粘着質で強靭な魔力の糸――【絡め取る残火エモーショナル・バインド】が、レンの光を侵食するように噴き出した。

「逃がしたくない」「視界から消えるのを許さない」。

その執着心が追尾精度を決定する、捕食者の魔法。


本来ならコウタを縛り付けるためのその糸は、レンの光のバフを浴びて、不自然なほど透き通った「綺麗な糸」へと変質させられていく。


(痛い。頭、割れそう)


あまりの「清潔さ」に、三日不眠の脳がパニックを起こす。

レンの光に洗浄された【残火】は、ドロドロとした執着の重みを失い、ただの「光り輝く芸術品」としてボスの四肢を絡め取った。


(違う。私の魔法は、もっと、負の感情を流し込んで、相手を精神的に萎縮させる、汚いもののはずなのに)


「すごい、枷奈さん! 最高の輝きだ! 君は今、世界で一番美しい!」


レンの賞賛。

ドローンのレンズが、その「美しく輝く二人」を、残酷なほど鮮明に記録し続けている。


カナは、激しい頭痛に耐えながら、レンズの向こうにいるコウタを探した。

500円のペンギントレーナー。

安酒と、生活の匂い。


(ねえ、コウタ。見てよ。私、今、輝いてるよ)


内心の絶叫。

だが、コウタは何も言わない。

ただ、指先でドローンを操り、カナが「自分以外の匂い」に染まっていく姿を、事務的にアーカイブへと放り込んでいく。


「っ、レンさん! もっと、もっと光を! 私を、全部、塗りつぶして!」


カナは、割れるような頭痛に涙を浮かべながら、さらにレンの懐へと深く潜り込んだ。

【飢餓の獣】が暴走し、その指先がレンの甲冑を軋ませる。

自分の嗅覚を、脳を、レンの「清潔」で破壊してしまいたかった。


そうすれば、コウタのあの「澱んだ瞳」から、ようやく逃げ出せる気がしたから。


「ああ。君の望むままに、枷奈さん」


レンの『白銀の加護』が最大出力で爆ぜ、ボスの巨体を純白の光の中に飲み込んだ。


絶叫。消滅。

「完全勝利」の静寂の中で、カナはレンの胸に崩れ落ちた。


鼻を突く、高級な花の香り。

頭を締め付ける、逃げ場のない清潔感。


カナは、朦朧とした意識の中で、コウタのあの「500円のペンギントレーナー」の、毛玉だらけの感触を、狂おしいほどに渇望していた。


能美・第二階層ゲート前。

攻略を終えた広場は、レンのファンたちの歓声と、公式カメラのフラッシュで埋め尽くされていた。

だが、その中心に立つカナの顔は、勝利の喜びとは程遠い、土気色に変色していた。


「っ、ぁ」


胃の底が、熱い鉄を流し込まれたように疼く。

鼻腔にこびりついて離れない、レンのあの「花の蜜と防腐剤」の香り。

その完璧すぎる清潔さが、カナの体内に溜まった「安酒と不眠の澱み」と激しく衝突し、猛烈な拒絶反応を引き起こしていた。


頭痛だけじゃない。

今度は、内臓が悲鳴を上げている。


「枷奈さん? まだ顔色が悪いね。シャトルの手配はしてあるから、僕の……」


「今! 触らないでっ! ごめんなさい!」


レンの差し伸べた手が、あまりにも白く、美しすぎて、カナは吐き気を催した。

彼女はレンを突き飛ばすようにして、広場の隅にある公衆トイレへと全力で駆け出した。


織色製のタクティカルウェアが、湿った冷気に擦れる。


(なによこれ! なんなのよ、これ!!)


個室に飛び込み、鍵をかけた瞬間。

カナの身体から、レンの「光」に洗浄され、居場所を失った汚濁が、激痛と共に一気に溢れ出した。


それは、レンの提示した「正解」を、カナの肉体が文字通り「異物」として排泄しようとする最後の抵抗だった。


「っ、う、ぅ、あ、コウタ」


冷や汗でぐちゃぐちゃになった顔で、カナは震える手でスマホを取り出した。

GPSでコウタの位置を確認する。

彼はまだ、第二階層の「外」――ゲート付近の影にいるはずだ。


だが。


(え? なに、これ)


管理画面の隅に、異常な数値が表示されていた。


コウタが操っていたはずの観測用ドローンの一機が、メインの「レン×カナ」の配信枠から外れ、別の座標で戦闘ログを大量に吐き出している。


ログには、第二階層の裏道に生息する強力なモンスターたちの名前が、一秒刻みで刻まれていた。


「コウタ、あんた、裏で何してんのよ」


カナの瞳が、驚愕で見開かれる。

モニターの中では、冴えない顔でドローンのコントローラーを握っているだけの「500円のペンギントレーナー」。

だがその裏で、彼はドローンの死角に誘い込んだモンスターを、文字通り「掃除」していた。


カナに汚れが飛ばないように。

あるいは、レンの「光の配信」にノイズが入らないように。


彼は、カナがレンの匂いに焼かれている間、ただ一人、本当の「汚泥」の中に手を突っ込んで、すべてを無慈悲に抹殺していたのだ。


(バカ。バカ、コウタ。なんで、なんでそんなことすんのよ)


腹部の激痛は、まだ収まらない。

けれど、コウタが裏で血生臭い「暴力」を振るっていたという事実に、カナの脳は、狂おしいほどの安らぎを感じ始めていた。


レンの清潔な香水よりも。

コウタが今、その手に纏わせているであろう「返り血の匂い」の方が。

自分には、何千倍も、甘美に感じられる。


「はぁ、はぁ。待ってなさいよ、コウタ。帰ったら、その汚い手、私が全部、舐めとってあげるから」

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