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第九十一話:『白銀の騎士、あるいは上書きの恐怖』
能美・第二階層ゲート前。
冬の終わりの湿った冷気が、加賀友禅の文様が施されたカナのタクティカルウェア――『織色』製の特殊繊維を冷たく湿らせている。
カナは、サングラスの奥で、腫れぼったい目を激しく泳がせていた。
寝ていない。
昨夜、あの後もずっとレンの動画を何度も何度も見返して、酒を煽って、コウタの背中を睨んで、それでも離れられなくて。
気づいたら朝だった。
「コウタ、ねえ、見てよ。あいつ、なんなのよ」
カナは、コウタのシャツの裾を、指の関節が白くなるほど強く握りしめていた。
昨夜の「消えてやる」という言葉は、今この瞬間にはもう、喉の奥に張り付いたまま出てこない。
代わりに、広場の向こうから歩いてくる「光」を捉えた瞬間、彼女の背筋に冷たい戦慄が走る。
画面越しに何度も見た皇レン。
白銀の甲冑。完璧に整えられた金髪。慈愛に満ちた微笑み。
画面の中では「絵」だった。でも、目の前に立つ実物は――
(くっそ。なんだよあいつ。女みてえな顔してんな)
整いすぎた輪郭。切れ長の瞳。肌の白さ。
鍛え上げられた肩幅。甲冑の下から覗く腕の線。
背が高い。コウタより頭一つはある。
近づくたびに、高そうな香水の匂いが風に乗る。
(あー、金あんだろうな。こういう奴って、みんなそうだ)
カナは、無意識に隣のコウタと見比べた。
500円のペンギントレーナー。冴えない顔。いつもの無機質な瞳。
肩を並べたら、惨めさが暴力的に際立つ。
「初めまして、枷奈さん。皇レンです。今日からよろしくお願いします」
レンが、鈴を転がすような声で笑う。
その瞬間、カナの口から漏れたのは、尖った罵倒ではなく、喉の奥に張り付いたような乾いた吐息だった。
他人行儀な敬語。借りてきた猫のような壁。
それがカナの精一杯の抵抗だった。
「よろしく、お願いします」
(きめえ。きめえきめえきめえ)
(なんだよその顔。女かよ。つか、なんでそんなに完璧なんだよ)
(あんたのその『正解』で、私の『地獄』を上書きしに来るんだろ)
(でも、あいつは止めないんだよな。私だけを、あんたに差し出すんだ)
カナは、チラリと横を見た。
コウタは、そこに立っていた。
いつもの、冴えない顔。500円のペンギントレーナー。
いつもの、無機質な瞳。
ただ、ドローンのコントローラーを手に、こちらを見ているだけだ。
(コウタ、あんた、負けてんじゃん)
(こいつと並んだら、あんた、ただの雑魚じゃん)
(背丈も、顔も、金も、全部負けてんじゃん)
レンが、一歩近づく。
その瞬間、カナの鼻腔を、彼の放つ「清潔な香り」が掠めた。
花の蜜を煮詰め、最新の化学技術で「清潔」という概念を固形化したような、逃げ場のない芳香。
「っ」
胃が、一瞬で締め付けられた。
「枷奈さん? 顔色が良くないね。緊張してるのかな? 大丈夫、僕がついてるから」
レンが、慈愛に満ちた瞳で、カナの顔を覗き込む。
その顔が、近い。
女みたいな整った顔。睫毛長い。目、キラキラしてる。
鍛え上げられた体から、高そうな匂いがする。
コウタとは、全部が違う。
(あー、もう。こんなイケメン、好きにならないやついないじゃん)
(オーラありすぎ。目の前に立たれたら、誰でも惚れるだろこれ)
(なんで世の中、こんな不公平なんだよ)
「だ、大丈夫です。ちょっと、寝不足で」
カナは、弾かれたように顔を逸らした。
手が震え、呼吸が浅くなる。
サングラスを直そうとして指が滑り、地面に落としそうになって慌ててキャッチする。
「コウタさん、カナさん、そろそろ行きましょう。今日は、いい景色を見せてあげたいから」
レンが、明るい声で言う。
カナは、もう一度、コウタを見た。
コウタは、そこに立ったまま。
無表情。何も言わない。
ただ、ドローンのコントローラーを握っているだけだ。
(コウタ、ねえ)
(あんた、私がこんなイケメンと組むの、それでいいの?)
(あんた、何にもしてくれないなら)
(私、この人に惚れちゃうよ)
カナは、コウタのシャツの裾を、もう一度ぎゅっと握りしめた。
「コウタ」
「何だ」
「ちゃんと、見てろよ。私が、あの男に『救われて』いくとこ」
「ああ」
コウタは、無表情で答える。
(バカ。バカ、コウタ)
(あんたが、私のこと、つなぎ止めないなら)
(私は、この人に行くから)
カナは、手を離し、レンの方へと歩き出した。
能美・第二階層、『水煙の回廊』。
天井から滴る水滴が、蛍光を帯びた苔を叩き、静謐な音を立てている。
本来なら、一歩足を踏み入れるだけで神経が削れるような湿った暗闇。
だが、今のカナの視界は、暴力的なまでの「白」に塗り潰されていた。
「っ」
レンが抜剣した瞬間、洞窟の湿った空気が一変した。
彼が纏う『白銀の加護』。そのスキルから放たれる清冽な光が、カナの網膜を白く焼き、足元の泥濘さえも、まるで大理石の床であるかのように錯覚させる。
コウタのドローンが、その「神々しい光景」を、完璧な構図で捉えているのが分かった。
「枷奈さんは、僕の後ろに。君を、一滴の返り血にも触れさせたくないんだ」
レンの声は、洞窟の反響さえも味方につけて、澄んだ旋律となって耳に届く。
前方から這い出してきた、醜悪な粘液質の魔獣――『泥這い』。
いつもなら、カナが泥にまみれ、罵声を吐きながら、火炎放射器で焼き尽くす相手だ。
だが、レンは動かなかった。ただ、剣を正門に構えただけだ。
一閃。
剣筋に沿って、物理的な衝撃波ではなく、柔らかな光の波が広がった。
魔獣の汚泥が弾け飛ぶ。けれど、カナの頬に飛んでくるはずの飛沫は、レンの展開した不可視の防壁に阻まれ、霧となって消えた。
圧倒的な、スペックの差。
カナが命を削って、酒と怒りで無理やり捻り出していた「暴力」とは、次元が違う。
レンの戦いは、残酷なまでに「正解」だった。
無駄がない。汚れがない。そして、何より――カナを必要としていない。
(なに、これ。私の出番、一ミリもないじゃん)
カナは、ノーマルソードを抱えたまま、手持ち無沙汰に立ち尽くしていた。
いつもなら、コウタが「もっと右だ」「叫べ」と指示を飛ばしてくる。
その声に応えて、自分が「汚れ」を撒き散らすことで、二人の画面は完成していた。
だが、今のコウタは、何も言わない。
ドローンは、レンの流麗な剣筋と、その光に照らされて「綺麗に立っているだけ」のカナを、無機質に記録し続けている。
カメラの中に、カナの「牙」は映っていない。
ただ、王子様に守られている、可哀想で、清潔な、中身のない置物。
「ねえ、コウタ。指示、出さないの?」
通信機越しに、震える声で問いかけた。
五秒の沈黙。
「いや。今のレンの光量が完璧だ。お前は、そのまま動かずに立ってろ。その方が、絵になる」
コウタの、冷え切った声。
その瞬間、カナは心臓を、氷の楔で貫かれたような気がした。
「そのまま動くな」。
それは、彼女が誇りとしていた「狂犬としての自分」を、コウタ自身が否定した言葉だった。
レンが、最後の一体を光の塵に変え、こちらを振り返った。
一滴の汗も、一筋の乱れもない。
彼は、優雅な手つきでカナの手を取り、その汚れ一つない指先に、そっと自分の唇を寄せた。
「怖かったね。でももう、あんな汚い戦い方はしなくていい。僕が、君を本当の攻略配信へ連れて行くよ」
レンの口から放たれる、高そうな香水の匂い。
カナは、拒絶したかった。
「ふざけんな」と叫んで、その完璧な顔を殴りつけたかった。
だが、身体が動かない。
レンの圧倒的な「正しさ」と「強さ」が、彼女の卑屈な自意識を押し潰し、去勢していく。
レンズの向こうで、コウタがそれを見ている。
彼が今、何を撮っているのか、カナには分かってしまった。
レンに跪かれ、顔を赤らめ(それは怒りと屈辱によるものだったが、画面越しには恋心に見えるだろう)、光の中に溶けていく「美しい自分」。
(コウタ。あんた、これ、撮りたかったんだよね)
(汚い私じゃなくて、こうやって、誰かに綺麗に洗われていく私を)
(地獄から救い出されて、あんたから離れていく私を、最高のアングルで撮りたかったんだよね)
カナの瞳から、一筋の涙が零れた。
レンはそれを「救済への感動」だと誤解し、さらに優しく、彼女を抱き寄せる。
白銀の甲冑の冷たさが、カナの肌に伝わる。
その瞬間、彼女は確信した。
今、この画面の中に、コウタの居場所はない。
そして、コウタのカメラの中にも、もう「今の自分」を拒む場所はないのだと。
「コウタ。私、救われちゃうよ。いいの?」
絶叫に近い囁き。




