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第九十話:『運営命令と四つの檻』


スマホが震えた。

着信表示は、見覚えのある企業ロゴ――『ストリーム・ゲート』。

コウタは一瞬ためらい、それから通話ボタンを押した。


「はい」


五秒後。


「はい」


十秒後。


「わかりました」


通話が切れる。部屋には、カナが寝転がったまま、ジッとコウタを見つめていた。


「何よ」


「ストリーム・ゲートからだ。来週、公式イベントをやる。能美の第二階層、ペアを入れ替えての攻略配信だ」


「は? 入れ替える? 誰と」


「お前の相手は、皇レン。『白銀の騎士』。『救済』がモットーらしい。どんなに荒んだ相手でも、光の中に連れ戻す。お前には、これ以上ない救いだな」


コウタは淡々と、スマホに届いた通知を読み上げる。


「ちょっと待ちなさいよ。あんたは? あんたは誰と組むの?」


「俺は、コラボしない」


「は?」


「運営の指示だ。お前だけ、ペアを組めって」


カナの顔が、一瞬で強張る。


「なに、それ。私だけ、あの王子様と組めって? あんたは、ただのカメラマンに戻れって?」


「そういうことだ」


コウタはモニターに向き直り、キーボードを叩き始める。


カナは、その背中をじっと見つめていた。

やがて、ゆっくりと起き上がる。その目が、暗く濁り始めていた。


「ねえ、コウタ」


「何だよ」


「私、他の男と組むの、あんた、それでいいわけ?」


コウタの手が、一瞬止まる。


「仕事だ」


「仕事だからって何でもいいわけ? あんた、私が他の男とペア組んで、その男に『救われます』って微笑んでるの、それでいいの? 平気なの?」


「平気なわけないだろ」


「じゃあなんで止めないのよ! なんで『行くな』って言わないの! なんで私だけあの王子様に差し出して、あんたはカメラ回すだけで満足してるわけ!?」


カナの声が、部屋に響く。

コウタは、振り返らない。


「お前が行くって言うなら、止めない。それだけだ」


「あんた、私のこと、つなぎ止めないなら、他の男のとこ行くからね」


コウタの手が、完全に止まる。


「ねえ、もう、あんたが私のこと、他の奴に差し出すなら」

「私のことなんて」

「このコラボ終わったら、消えてやる」


静寂。

コウタが、ゆっくりと振り返った。

その無機質な目に、初めて、はっきりとした感情が揺れる。


「消えるな」


「じゃあ、約束しなさいよ」


「何を」


「あの男みたいにならないで。あんたはあんたのままでいろ。私だけもんだ。それが嫌なら、今すぐ止めろ。私のこと、つなぎ止めろ。そのどっちかを、選びなさい」


コウタは、長い間、カナの目を見つめていた。

やがて、無表情のまま、口を開いた。


「止めない」


「は?」


「お前が他の男と組むのは、止めない」


カナの顔が、一瞬で強張る。


「でも」


コウタの声が、少しだけ低くなる。


「消えるな。それだけは、許さない」


「っ」


「お前が他の男と組もうが、何しようが、それだけは、絶対に許さない。これで、いいか」


カナは、その言葉を聞いて、しばらく動かなかった。

やがて、這うようにコウタの背中に近づき、そのTシャツの裾をぎゅっと握りしめた。


「ばか。ばか、コウタ」


「うるさい」


「うん」


――コラボ前日・深夜。


アパートの六畳一間。


ストロングゼロの安っぽい人工甘味料の香りと、消臭剤の香料が混ざり合い、逃げ場のない淀んだ空気を作り出している。

コウタは、モニターの前で、椅子に突っ伏して眠っていた。

青白い光が、彼の無防備なうなじを冷たく照らしている。


カナは座椅子に深く沈み込み、スマホの画面を凝視していた。

開いているのは、皇レンの直近の配信アーカイブだ。

白銀の甲冑を纏った男が、慈愛に満ちた声で語りかけている。

『今日も、誰かを救いたい。君が、その人だ』


「うっぜえな、この男」


カナは、画面の中の「白銀の騎士」を、吐き捨てるように見つめる。


(救済? 笑わせんな。あんたのその『正解』で、私の『地獄』を上書きしに来るんだろ)

(気色悪い。きめえ。私の、コウタの、二人だけの場所に、土足で踏み込んで『綺麗にしてあげます』だって?)

(でも、止めないんだよな。私だけを、あんたに差し出すんだ)


彼女はスマホを放り出し、四つん這いになって眠っているコウタの足元へ這い寄った。

彼の履いている、少し踵の擦り切れたスリッパ。


「コウタ、あんたの『ありのまま』なんて、誰も好きにならないの」


カナはコウタの足首を、祈るように両手で掴んだ。

体温が伝わってくる。生きている。私の隣に、確かにいる。

だが、明日になれば。

この体は「レン」という光に晒される。コウタは、それをただ見ているだけだ。


「ねえ、コウタ。もし、あたしがあの男の『光』に憧れて、『綺麗な世界』に行きたいって思ったら。コウタ、どうなっちゃうかわかってんの」


カナの声は、自分でも驚くほど湿っていた。

彼女は、レンの動画を再び再生した。

今度は音量を最大にする。

静かな深夜のアパートに、不釣り合いなほど明るい「騎士」の声が響き渡る。


『君を、一人にはしない。僕が、必ず救ってみせる』


「は? 金持ってそうなセリフ」

「ほら、コウタ。あんたは見てるだけ。私が、あの金持ち王子様に『救われて』いくのを、ただ記録するだけ。それが、あんたの仕事でしょ」


カナは、画面の中のレンを睨みつける。


「てか、コウタと揉めよ。私のこと取られたくないなら、あの男に『この女は俺のものだ』って言いに行けよ。むかつく」


彼女は、寝ているコウタの肩を殴った。

コウタは微動だにしない。


「寝てる場合か。バカ」


カナは、自分のスマホのカメラを起動した。

インカメラに映る自分の顔。

酒で充血した目。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになり、化粧も剥げ落ちた、醜い姿。


「見てよコウタ。これがあんたの彼女の『ありのまま』だよ。

 なんで、こんなに汚いの。

 あんたは、これでいいって言うの?」


カナは、コウタの寝顔を見つめながら、その醜い自画像を保存した。

もし、彼が明日、自分の「光」に染まっていく姿を見て、何も言わなかったら。

この写真を送りつけてやる。


「『救済』なんて、させない。あんたが私を見てる限り、私は、私のままでいるから」


カナはコウタの膝の間に体を丸め、胎児のような姿勢で、アルコールの残火に身を委ねた。


「一緒に、灰になろうって、言ったじゃない」


朝が来れば、戦いが始まる。

「光」という名の侵略者から、自分の唯一の獲物を守り抜くための、汚い、泥だらけの戦いが。

でも、コウタは戦わない。ただ、見てるだけ。

その背中が、腹が立って、それでも離れられなかった。


カナは眠りに落ちる直前、レンの動画の停止ボタンを、呪いを込めてタップした。

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