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第八十九話:『虚像の頂、あるいは泥船の叫び』
どれくらいの時間が経ったのか。
カナがうつらうつらとし始めた頃、部屋の空気が変わった。
キーボードを叩く音が止む。
静寂。
コウタがゆっくりと椅子を回した。その顔は無表情だったが、目だけが異様にギラついている。
「なあ、カナ」
「なに」
「お前、さっきから『考えてない』って言うけどさ」
カナの瞼が開く。
「何が言いたいの」
「お前が俺に求めてる『考える』って、結局何なんだよ」
コウタの声は低く、抑えられている。だがその奥に、何かが溜まっているのがわかる。
「未来を考えろって言うから、俺は必死に考えた。数字のこと、金のこと、配信のこと。どうやったらお前が安心できるか、どうやったらこの生活が続くか――毎日、夜中に目が覚めて考えてる」
「それは」
「でもお前は、『そういうことじゃない』って否定する。じゃあ、何を考えればいいんだ。俺たちの関係性か? 愛情の深さか? それとも――」
コウタが立ち上がる。
「お前が本当は、考えたくないだけなんじゃないのか」
カナの顔が強張る。
「は?」
「未来が見えないのが怖い。だから考えたくない。でも、俺にだけは『考えろ』って求める。それって、ずるくないか」
「ずるいって何よ」
「だってお前、自分は考えてないだろ!」
コウタの声が初めて荒ぶ。
「さっき言ったよな。『未来なんて来なきゃいいのに』『このまま今が続けばいいのに』――それって、完全に考えるの放棄してるだけじゃん!」
「っ」
「俺は考えてる! 毎日、毎晩、考えてる! でも考えれば考えるほど、答えなんて出ないってわかってるんだ!」
コウタがキーボードを叩きつけるようにして立ち上がる。
デュアルモニターの青白い光に照らされたその顔は、冷徹な仮面が剥がれ落ち、剥き出しの焦燥が張り付いていた。
「考えてないわけないだろ!」
怒鳴り声が、狭い六畳一間の壁に跳ね返る。
カナは、初めて見るコウタの「感情の爆発」に、開いた口が塞がらない。
「俺だって、この不安を消したいんだよ! 毎日、夜中に目が覚めて、この生活がいつまで続くのかって考えて、吐きそうになってるんだ!」
コウタはモニターに映る再生数のグラフを指差した。
そこにあるのは、人々の好奇心という名の、形のない数字の羅列だ。
「これが万バズして、俺たちが有名人になって……そうすれば、お前が言った『未来が見えない』なんて不安、全部札束で黙らせられると思ってんだよ! だから必死にカメラ回して、吐き気がするまで編集してんだ!」
「コウタ、あんた……」
「俺を信じろって言ったのは、嘘じゃない」
コウタの声が、一瞬だけ揺らぐ。
「そう信じなきゃ、お前と一緒にこの泥沼に浸かってられるかよ。お前だけじゃないんだ。俺だって、夜中に目が覚めて、自分の人生の終わりを想像して吐きそうになってるんだ」
カナは息を呑む。
彼が、こんなに言葉を重ねるのは初めてだ。
「有名になれば、何かが変わる。まともな奴らを見返せる。お前に『明日』を約束できる。そう思ってなきゃ、こんな不仲を売り物にするような真似、正気でやってられるわけないだろ!」
コウタはガックリと肩を落とし、椅子に崩れ落ちた。
震える手で顔を覆うその姿は、カナを冷たく突き放す怪物ではなく、ただの、救いようのない一人の男だった。
「お前の嫉妬も、不安も、全部俺たちの『武器』なんだよ」
顔を覆ったまま、彼は呟く。
「これがないと、俺たちはただの無職のハンターだ。消したいよ。俺だって、こんな不安定な生活、今すぐにでも消したい」
――消したい。
その言葉が、カナの胸に深く刺さる。
(あんたも、消したいんだ)
(私と同じように)
(でも、あんたは考え続けた。逃げずに、考え続けた)
部屋に沈黙が降りる。
外では、小松の静かな夜風が窓を叩いている。
カナは、床に転がった空き缶を見つめ、それからゆっくりとコウタの隣に歩み寄った。
彼の前にしゃがみ込み、顔を覆う手の上に自分の手を重ねる。
「にひー」
声が、震えていた。
「あんたも、怖かったんだね」
「…………」
「私のこと、冷たく突き放す怪物だと思ってた。でも、違ったんだ」
カナはコウタの手をそっと剥がし、涙で濡れたような彼の顔を見た。
「あんたは、ただのバカだった。私と同じくらい、どん底を覗き込んでるバカだった」
コウタは何も言わない。ただ、カナを見つめ返す。
その瞳には、もう虚ろさはない。代わりに、剥き出しの疲弊と、かすかな安堵が混ざっていた。
「バカじゃないの。有名になったって、不安なんて消えないわよ」
カナはにたりと笑う。
「でも、あんたが私と同じくらい絶望してるなら、それでいい。私だけが苦しいんじゃない。あんたも苦しい。それで、ちょうどいい」
カナは立ち上がり、コウタの頭を自分の腹に抱き寄せた。
未来を約束する甘い言葉よりも、共に震えるこの瞬間の方が、今の彼女には何千倍も「本当」に感じられた。
「有名になろうよ、コウタ」
コウタの頭を抱きしめたまま、彼女は言う。
「世界中で一番、有名で、最悪な不仲カップルに」
「なぜ、そこまでして有名になりたいんだ」
コウタの声は、彼女の腹に埋もれてくぐもっている。
カナは少しだけ間を置き、それから――いつもの調子で答えた。
「そうすれば、誰も私たちを無視できなくなるから」
画面の中では、無数の「いいね」と「罵倒」が、今も交互に明滅している。
二人の「明日」を燃やしながら。




