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第八十八話:『空疎な反響、あるいは思考の檻』


アパートの六畳一間。


コウタはモニターに向かったまま、キーボードを叩く手を止めない。その背中は、先ほど「安物の救済」を口にした男とは思えないほど、冷たく、機械的だ。


カナは座椅子に丸まったまま、彼の背中を睨みつけている。


(なんだったんだ、今の)

(あんた、私に「一緒に灰になろう」って言ったんじゃなかったのか)

(なのに急に、未来は明るいとか、数字が伸びるとか――)


頭の中で、さっきのコウタの言葉が反芻する。


「大丈夫だよ。いつまでも一緒だよ」

「今回の配信で、俺たちの未来はきっと変わる」

「俺を信じて待っててくれ」


どれもこれも、まるで借りてきたようなセリフ。ドラマか何かで聞いたことがあるような、使い古された言葉の羅列。


(あれは、私に向けて言ったんじゃない)


カナは直感する。


(あれは、誰かに向けて言うべき「正解」を、ただ並べただけだ。私のことなんて、何も見てない)


―――


沈黙が重い。


カナは新しいストゼロを開けようとして、手を止める。もう、酔う気にもなれなかった。


「ねえ」


声をかける。


コウタの手が止まる。が、振り向かない。


「なんだ」


「さっきの、何だったの」


「さっきの?」


「とぼけないでよ。『未来は明るい』とか、『一緒にいる』とか。あんた、本気で言ったの?」


コウタはしばらく沈黙し、それからゆっくりと椅子を回した。


その顔には、さっきまでの貼り付けた微笑みはない。元の無表情に戻っている。


「本気も何も、お前が不安がってたから、安心させる言葉を選んだだけだ」


「選んだ?」


「ああ。将来が不安だって言うなら、希望を持てる言葉をかける。それが正解だと思った」


カナは絶句した。


「正解? あんた、私との会話に、正解とかあると思ってんの?」


「あるだろ。状況に応じて、適切な言葉を選ぶ。それがコミュニケーションだ」


コウタの声は、相変わらず平坦だ。そこに感情の揺らぎはない。


ただ、論理だけがある。


カナは立ち上がり、よろめきながらコウタの前に立つ。


「違う。そうじゃない」


「じゃあ、何が正解なんだよ。お前が満足する言葉を教えてくれ。次からはそれを使う」


「っ」


カナは言葉を失う。


(使う? 次からはそれを使う?)

(まるで、道具みたいに)


「あんた、私のこと、何だと思ってんの」


「相棒だよ。ビジネス不仲の、な」


「違う」


カナの声が震える。


「私は、あんたの……」


言いかけて、止まる。


自分はコウタにとって何なのか。それを言葉にしようとして、何も出てこない。


「私は、あんたのものだ」


絞り出すように言う。


「だから、あんたも、私のものだ。正解なんて、いらない。ただ、そこにいてくれれば、それでいい」


コウタはしばらくカナを見つめ、それから小さく息を吐いた。


「それが、お前の望みか」


「そうだよ」


「わかった」


コウタは再びモニターに向き直る。


「でも、それじゃあ、お前の不安は消えないだろ。俺がそこにいるだけじゃ、未来は変わらない」


「別に、変わらなくていい」


「じゃあ、お前は何に怯えてたんだ」


カナは答えられない。


――何に怯えてたのか。

――自分でも、わからなくなっていた。


ただ、コウタが隣にいなくなることが怖い。

ただ、自分が誰にも必要とされなくなることが怖い。


でも、それなら――彼が隣にいるだけで、解決するはずなのに。


なのに、なぜ、もっと違うものを求めてしまうのか。


(わかんない)

(わかんないよ)

(私が欲しいのは、いったい何なんだ)


―――


コウタはキーボードを叩き始める。もう、カナを見ない。


カナは座椅子に崩れ落ち、天井の染みを見つめる。


二人の間には、空虚な沈黙だけが流れている。


さっきまで交わしていたはずの言葉は、ただの「反響」として部屋の中を漂い、やがて消えていった。

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