表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
87/92

87

第八十七話:『安物の救済、あるいは張り付いた微笑』


アパートの空気は、ストロングゼロの甘ったるい匂いと、カナの湿った嗚咽で飽和していた。


前のめりにコウタの背中に顔を埋めていたカナの震えが、少しずつ収まっていく。涙と鼻水で彼のシャツがべしょべしょになっている。


「落ち着いたか」


コウタの声は相変わらず平坦だ。だが、その手がキーボードから離れ、ゆっくりと椅子を回転させる。


カナはしがみついたまま、彼の胸に顔を押し付けている。顔を上げるのが恥ずかしいのか、それともまだ不安が残っているのか。


コウタはそんな彼女の肩を、優しく――そしてどこか機械的な手つきで抱き寄せた。


「カナ」


「ん」


「大丈夫だよ。いつまでも一緒だよ」


カナの動きが止まった。


その声は、驚くほど滑らかだった。今まで一度も聞いたことがないような、耳に心地よい、けれど中身が空っぽな甘い響き。


「え?」


カナが顔を上げる。涙に濡れた瞳で、コウタの表情を探る。


コウタは穏やかな、貼り付けたような微笑を浮かべて、彼女の頬をなでた。


「先のことを考えて不安になるのはわかる。でも、大丈夫。今回の配信で、俺たちの未来はきっと変わるから。これからはもっと数字も伸びるし、将来はきっと良くなるからさ」


「コウタ、あんた……何を……」


「俺を信じて待っててくれ。カナは、ただ隣にいて笑っててくれればいいんだ。今回はお金もかなり入ったし、また二人でゆっくり休もうよ。な?」


コウタの微笑みは崩れない。


まるで「こういう状況では、こういうセリフを言うのが正解だ」とプログラムされたかのような、完璧で、空虚な演技。


カナは一瞬、夢を見ているのかと思った。


ずっと欲しかった言葉。ずっと待っていた、未来への保証。


けれど、コウタの口からそれが零れ落ちた瞬間、彼女が感じたのは安堵ではなく、形容しがたい生理的な不快感だった。


――違う。

――これじゃない。

――私が欲しかったのは、こんなものじゃない。


「っ、やめて」


カナは突き放すようにコウタの手を振り払った。


彼の胸元を押し返し、距離を取る。酒でふらつく足を必死に踏ん張って、座椅子の端に座り直す。


「何よ、それ」


「どうしたんだよ、カナ」


「気持ち悪い」


カナは睨みつけるようにコウタを見た。


「あんた、誰よ。そんな安っぽい、ドラマの三枚目みたいなセリフ……あんたが言うわけないじゃない」


「どうして? 幸せになりたいって言ったのはカナだろ。俺は、その未来を約束してるんだよ」


コウタの微笑みは崩れない。


その瞳は、依然として暗いモニターの光を反射して、何も映していない。


まるで――人形のように。


「嘘」


カナの声が震える。


「全部嘘だわ。あんた、本気でそんなこと思ってない」


「嘘じゃないよ。俺たちの未来は明るい。そう信じなきゃ、やってられないだろ?」


コウタはそう言うと、再びモニターへと向き直った。


キーボードを叩き始める。その背中は、先ほどまでの「優しい彼」など最初から存在しなかったかのように、冷たく、そして徹底的に孤立していた。


―――


カナは座椅子に丸まり、自分を抱きしめる。


未来を約束されたはずなのに、部屋の温度は先ほどよりもずっと下がったように感じられた。


(違うんだ)

(私が欲しかったのは、こんな綺麗事じゃない)

(一緒に灰になろうって、そう言ったのは、さっきのあんたの方だったのに)

(なんで、急に……)


考えがまとまらない。アルコールのせいか、それとも――コウタの豹変が、あまりにも突然だったからか。


「にひー」


乾いた笑いが漏れる。


「最悪。やっぱり、あんた、世界で一番、最悪だわ」


呟きは、コウタの背中に吸い込まれていく。


彼は振り返らない。


ただ、モニターに映る編集画面だけが、二人の間で静かに動き続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ