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第八十七話:『安物の救済、あるいは張り付いた微笑』
アパートの空気は、ストロングゼロの甘ったるい匂いと、カナの湿った嗚咽で飽和していた。
前のめりにコウタの背中に顔を埋めていたカナの震えが、少しずつ収まっていく。涙と鼻水で彼のシャツがべしょべしょになっている。
「落ち着いたか」
コウタの声は相変わらず平坦だ。だが、その手がキーボードから離れ、ゆっくりと椅子を回転させる。
カナはしがみついたまま、彼の胸に顔を押し付けている。顔を上げるのが恥ずかしいのか、それともまだ不安が残っているのか。
コウタはそんな彼女の肩を、優しく――そしてどこか機械的な手つきで抱き寄せた。
「カナ」
「ん」
「大丈夫だよ。いつまでも一緒だよ」
カナの動きが止まった。
その声は、驚くほど滑らかだった。今まで一度も聞いたことがないような、耳に心地よい、けれど中身が空っぽな甘い響き。
「え?」
カナが顔を上げる。涙に濡れた瞳で、コウタの表情を探る。
コウタは穏やかな、貼り付けたような微笑を浮かべて、彼女の頬をなでた。
「先のことを考えて不安になるのはわかる。でも、大丈夫。今回の配信で、俺たちの未来はきっと変わるから。これからはもっと数字も伸びるし、将来はきっと良くなるからさ」
「コウタ、あんた……何を……」
「俺を信じて待っててくれ。カナは、ただ隣にいて笑っててくれればいいんだ。今回はお金もかなり入ったし、また二人でゆっくり休もうよ。な?」
コウタの微笑みは崩れない。
まるで「こういう状況では、こういうセリフを言うのが正解だ」とプログラムされたかのような、完璧で、空虚な演技。
カナは一瞬、夢を見ているのかと思った。
ずっと欲しかった言葉。ずっと待っていた、未来への保証。
けれど、コウタの口からそれが零れ落ちた瞬間、彼女が感じたのは安堵ではなく、形容しがたい生理的な不快感だった。
――違う。
――これじゃない。
――私が欲しかったのは、こんなものじゃない。
「っ、やめて」
カナは突き放すようにコウタの手を振り払った。
彼の胸元を押し返し、距離を取る。酒でふらつく足を必死に踏ん張って、座椅子の端に座り直す。
「何よ、それ」
「どうしたんだよ、カナ」
「気持ち悪い」
カナは睨みつけるようにコウタを見た。
「あんた、誰よ。そんな安っぽい、ドラマの三枚目みたいなセリフ……あんたが言うわけないじゃない」
「どうして? 幸せになりたいって言ったのはカナだろ。俺は、その未来を約束してるんだよ」
コウタの微笑みは崩れない。
その瞳は、依然として暗いモニターの光を反射して、何も映していない。
まるで――人形のように。
「嘘」
カナの声が震える。
「全部嘘だわ。あんた、本気でそんなこと思ってない」
「嘘じゃないよ。俺たちの未来は明るい。そう信じなきゃ、やってられないだろ?」
コウタはそう言うと、再びモニターへと向き直った。
キーボードを叩き始める。その背中は、先ほどまでの「優しい彼」など最初から存在しなかったかのように、冷たく、そして徹底的に孤立していた。
―――
カナは座椅子に丸まり、自分を抱きしめる。
未来を約束されたはずなのに、部屋の温度は先ほどよりもずっと下がったように感じられた。
(違うんだ)
(私が欲しかったのは、こんな綺麗事じゃない)
(一緒に灰になろうって、そう言ったのは、さっきのあんたの方だったのに)
(なんで、急に……)
考えがまとまらない。アルコールのせいか、それとも――コウタの豹変が、あまりにも突然だったからか。
「にひー」
乾いた笑いが漏れる。
「最悪。やっぱり、あんた、世界で一番、最悪だわ」
呟きは、コウタの背中に吸い込まれていく。
彼は振り返らない。
ただ、モニターに映る編集画面だけが、二人の間で静かに動き続けていた。




