85
第八十五話:『不毛な繭、あるいは責任の死体』
アパートの六畳一間。
ストロングゼロの空き缶が、ちゃぶ台の上で倒れたままになっている。カナはそれを見もせず、コウタの背中に問いかけた。
「ねえ、コウタ。あの繭の中の話、まだちゃんと聞いてないんだけど」
三缶目。彼女の声は、アルコールの熱を帯びて少しだけ低く、湿っている。
キーボードを叩くコウタの背中に、その視線が突き刺さる。
「何回目だよ、その話。無事に産ませて、消えた。それだけだ」
「『それだけ』なわけないでしょ」
カナは立ち上がり、よろめきながらコウタの背後に立つ。彼の肩に手を置き、耳元に顔を寄せた。
「あんた、あの女の体に触ったんでしょ? 抱き上げた? 赤ん坊、どんな感じだったわけ」
コウタの手が、一瞬だけ止まる。
「温かかったよ」
振り返らないまま、彼は答えた。
「消える寸前の、ただの魔力の残滓だったはずなのに。あんなに生々しく熱いものが、この世にあるんだって思った」
「ふーん」
カナの声が、一段階トーンを落とす。
「へぇ。じゃあ、あんたも欲しくなった? 子供」
その問いは、冗談の皮を被った「刃」だった。
コウタはようやく椅子を回転させ、カナを見上げる。その瞳は相変わらず無機質で、感情の色を読ませない。
「欲しいか欲しくないかなら、欲しい」
「っ」
「でも、しがらみが増えそうで、二の足を踏む」
カナの眉が跳ね上がる。
「しがらみ? 私となら、別にそんなの――」
「お前さ、自分のこと、ちゃんとしてねえだろ」
突き放すような言葉。
カナの顔から、一瞬で血の気が引いた。
「は? ちゃんとって何よ。ハンターとして稼いでるし、あんたのことも食わせてあげてるじゃない」
「そういうことじゃない」
コウタは立ち上がり、冷蔵庫に向かう。中から新しいストゼロを取り出し、カナに放る。彼女は無意識にそれを受け止めた。
「もっと、こう、安定した仕事に就くとか、社会に出るとか。子供を育てるなら、そういうのが必要なんじゃないかって、世間一般では言うだろ」
「あー、もう、面倒くさい!」
カナは受け取った缶を、開けもせずに畳の上に叩きつけた。
「そんなのどうでもいいじゃん! 子供だけ作ったらいいじゃない、もう!」
「そういうところだよ」
コウタの声は、相変わらず平坦だった。
「俺ら、責任感死んでんだよ」
沈黙。
カナは、歪んだ空き缶を床に転がした。
「普通」という言葉が、この六畳一間には一番似合わないことを、誰よりも理解している。
「あんたの言ってる『子供育てられる状態』なんてさ」
カナの声が震え始める。
怒りではなく、もっと深く、暗い場所から溢れ出す絶望。
「いつまでたったって、手に入るわけないじゃない」
「…………」
「どこまで、私たち、何すればいいのよ。これ以上何を削ればいいの? 魔物殺して、酒飲んで、その日暮らしで……」
彼女はコウタのシャツの胸ぐらを引き寄せた。
視界が涙で滲み、コウタの無表情がぼやける。
「コウタと未来が見えない。外に出れば、そこら中で家族なんてうじゃうじゃいるのに。みんな当たり前に手に入れてるのに、なんで私たちは、幸せが手に入らないの……?」
「…………」
コウタは何も答えない。
窓の外、小松の住宅街からは、時折車の走る音が聞こえる。そこには「ちゃんとした」人たちの、明日へ続く生活がある。
カナは悔しそうに唇を噛み、コウタの胸元に顔を埋めた。
「死んでていいわよ、責任感なんて」
声が、布地に吸い込まれていく。
「でも、あんたは私のものなんだから。幸せになんてならなくていいから、私を離さないでよ」
カナはしがみつく。
社会から拒絶され、自分でも自分を「ちゃんとしていない」と蔑む彼女にとって、コウタという唯一の「錨」さえ失えば、自分はただの塵になって消えてしまう。
コウタは、そんなカナの頭を、無表情のままゆっくりと撫でた。
「さっさと寝ろ、酔っ払い。明日は朝から換金の残務があるんだぞ」
「うるさい。離さないから。絶対に」
カナは眠りに落ちるまで、コウタの腕を離さなかった。
コウタはモニターの光を見つめながら、その重みを、ただ受け止めていた。




