81
第八十一話:『所有者の繭、あるいは暫定的な休戦』
「最悪。本当に最悪」
カナは、目の前でよろめくコウタを見つめ、吐き捨てるように呟いた。
平手打ちをした手のひらが、ジンジンと熱い。
その熱だけが、今の自分に残された、唯一の確かな感覚だった。
(……叩いた)
(……私、コウタを叩いた)
後悔はない。
ない、はずなのに——頬に当たった瞬間の感触が、手のひらの奥にこびりついて離れない。
それが嫌で、カナは拳を強く握りしめた。
「……おい、カナ……。……今はそんなこと言ってる場合じゃ……」
「……黙れって言ってんでしょ、バカコウタ」
コウタの声を遮る。
彼の顔を、まともに見られない。
見たら、また何かが軋む気がした。
カナは視線をずらし、背後で震える「妊婦」——仏御前の残滓を、ゴミを見るような目で見下ろした。
(……きれいな顔してる)
(……千年前に死んだくせに、今でもこんなに、きれいな顔してる)
風の勢いは増し、亡霊たちの呪詛が物理的な重圧となって押し寄せてくる。
(……このままじゃ、コウタが)
その思考が浮かんだ瞬間、嫉妬が恐怖に塗り替えられた。
嫉妬は痛い。でも恐怖は——もっと冷たい。
(……私のコウタが、こんな過去の女のために、すり潰されて消える)
それだけは、耐えられない。
嫉妬しながらでも、怒りながらでも、彼が生きていれば——まだ、続きがある。
でも死んだら、終わりだ。
特別になる前に、終わってしまう。
コウタを叩き伏せてでも、彼の「無差別な善意」を止めなければならない。
「……わかったわよ。……助ければいいんでしょ。……ただし、これはあんたのためじゃない。……あんたを殺させないために、私が勝手にやるだけよ」
【絡め取る残火】!!
カナの影から、噴水のように黒い糸が噴き出した。
だがそれは、敵を攻撃するためのものではない。
放射状に伸びた糸が、コウタと妊婦を包み込むようにドーム状に編み上げられ、外界の光を完全に遮断する。
「……カナ、これは……」
「……繭よ。……あんたの薄い魔法より、私の嫉妬で編んだ糸の方がずっと硬いわ。……そこで大人しくしてなさい」
言葉の続きを、カナは飲み込んだ。
言いたいことは山ほどある。
でも今は、それを言っている場合じゃない。
カナは繭の隙間から外へと飛び出した。
コウタを隔離し、妊婦ごと閉じ込める。
それは彼女にとって「救済」ではなく、「一時的な檻」への幽閉だった。
コウタの「無差別な善意」を、自分の嫉妬で封じ込める。
これ以上、あの女のために彼が削れていくのを、見ていられない。
「……しつこいんだよ! 何回倒しても湧いてくるし! ……あんたたち、自分たちの男を管理できなかった腹いせに、新入りをいじめるのはやめなさいよ!」
カナが叫び、アイアン・パイン製の剣で、迫りくる亡霊の腕を叩き落とした。
原風の勢いは、繭の外側を削り取るように荒れ狂っている。
その振動が、糸を通してカナの全身に伝わってくる。
(……痛い)
糸はカナの感情でできている。
外から削られるたびに、それはそのまま、彼女の内側を削る痛みになって返ってくる。
その時、カナの脳裏に、コウタが道すがら語っていた「付け焼刃の知識」が閃いた。
(……『屏風を立てて、夜みたいに暗くしろ』……だっけ?)
「……皮肉ね。……私の嫉妬が、あんたの言ってた『屏風』の代わりになるなんて」
誰にも届かない声で、カナは呟いた。
---
黒い繭の中。完全な闇。
外では亡霊たちが叫び、杼が飛び交う音が、カナの「糸」を叩く不快な振動として伝わってくる。
コウタは魔力切れで意識が混濁し、壁に背をもたせかけている。
暗闇の中で、仏御前の産気づく声と、コウタの荒い息だけが、不気味に共鳴していた。
「……おい……カナ……」
「……うるさい。……喋るな」
いつの間にか、カナが繭の内側に戻っていた。
外との戦いに区切りをつけたわけではない。
ただ、中に残した二人の気配が、糸を通してずっと伝わり続けていた。
コウタの呼吸が、浅くなっている。
それがわかった瞬間、足が勝手に動いていた。
(……嫉妬してる場合じゃない)
(……あんたが死んだら、私の嫉妬も、所有欲も、全部ただのゴミになる)
仏御前は、暗闇の中で激しく悶えている。
「……あ……ああっ……! ……生まれる……子が……!」
「……はあ!? ちょっと待ってよ、今!? ……空気読みなさいよ、千年前のトップアイドル!」
カナは、毒づきながらも妊婦の側に膝をついた。
助けたいわけではない。
でも、この「繭」が彼女の感情でできている以上、中での変化はすべて彼女に伝わる。
(……この女が死んだら、コウタの『優しさ』は失敗に終わる。……そしたら、コウタはまた自分を責める。……そんなの、真っ平ごめんよ)
「……ほら、さっさと産みなさいよ。……外のヒステリー共は、私がまた黙らせてくるから。……コウタに見惚れてる暇なんてないわよ、あんたには!」
カナはそう言い残すと、再び繭の隙間から、狂った風の中へと飛び出していった。
その背中は、誰よりも孤独で、誰よりも獰猛な「所有者」のそれだった。




