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第八十話:『嫉妬の原風、あるいは絶望の平手打ち』
「な、何よこれ、急に風が」
ゴォォォォという地の底から響く唸りとともに、原町の境界が震えた。
一月の湿った空気が急速に凍りつき、カナの銀髪が逆立つ。
風の中から、重なり合う女たちの呪詛が、鼓膜を直接掻きむしるように響き始めた。
「あの女、まだ生きてたの」
「殺さなきゃ、腹の子ごと」
コウタは、震える妊婦を背中に庇い、一歩前に出る。
カナはその背中を見ている。
(あの顔だ)
見えないはずなのに、わかる。
コウタの表情が、今どんなものかを。
特別な感情なんて、どこにもない。
ただ「守るべき人がいる」から、前に出る。それだけのことだ。
(私を助けた時と、同じ顔)
昔のことを、カナは今も憶えている。
路地に倒れていた自分に、彼は無表情で手を差し伸べた。
特別な同情も、哀れみも、なかった。
ただ「倒れている人間がいる」から、拾った。それだけだった。
あの時、カナはその無表情に、奇妙な安堵を覚えた。
同情じゃない。憐れみじゃない。
ただの、当たり前の行為。
だから受け取れた。
なのに——今は——。
「ぐっ、水障壁!」
コウタが魔法を展開する。だが連戦の疲労で、壁は薄く、震えている。
(削れてる。あんたの魔力、もう限界に近い)
カナにはわかる。彼と並んで戦ってきた時間が、そのくらいのことは教えてくれていた。
数本の杼が壁をすり抜け、妊婦の白い頬をかすめた。
「コウタ、あんた無理すんなってば!」
コウタは振り返らない。無表情のまま、壁を維持し続ける。
「いいから」
たった4文字。
その声の平坦さが、カナの胸に刃のように刺さる。
(「いいから」)
(私に言う時と、同じ言葉だ)
ダンジョンで傷を負った自分が「大丈夫」と強がるたびに、彼は同じ顔でそう言った。
「いいから」と。
「治す」と。
特別な熱もなく、ただそれが当然だから。
カナは、ずっとその「当然」に縋ってきた。
他の誰にも向けられない、自分だけの「当然」だと、そう思って。
その瞬間、彼女の目に映ったものは——コウタの背中越しに、一瞬だけ覗いた妊婦の口角だった。
かすかに、嘲笑うように釣り上がった。
「にひ。今、この女、笑ったわね」
(笑った。こいつ、今、笑った)
(わかってるんだ。自分が、コウタの「当然」の中に入り込んだことを)
その直後、さらに激しい杼の雨が降り注ぐ。コウタの壁が限界を迎え、ひび割れる。
「っ!」
コウタがさらに魔力を注ぎ込もうとする——その動作が、カナには見えた。
(まただ)
(また、あんたは自分を削って、誰かのために使おうとしてる)
喉の奥で、何かが腐っていく音がした。
(私の時も、そうだった。あんたは私のために、いつも自分を削った。それが、私には「特別」に見えた。私だけに向けられた消費だと、そう思ってた)
(でも、違う)
(あんたは誰にでも、同じように削れていく。この女にも。千年前に死んだ、名前も知らない妊婦にも)
(私は「特別」じゃない。あんたにとって、私は——ただ、そこにいた人間の一人だ)
【飢餓の獣】が、沸点を超えた。
バチィィィン!!
乾いた音が、風の唸りを切り裂いた。
カナの渾身の平手打ちが、コウタの頬を捉える。
コウタがよろめき、障壁が消える。
「な、何しやがる、今、戦闘中だぞ!」
彼の声には、怒りよりも困惑が混じっている。
なぜ、カナが自分を叩くのか、理解できないという顔だ。
その「理解できない」という表情が、カナの心臓をさらに締め付ける。
(わかんないんだ。あんたは、何もわかってない。自分が、私にとってどれだけ特別かも。私が、あんたにとって特別じゃないってことも)
カナは、背後でうずくまる「妊婦」を指差した。
「こいつ、仏御前よ。千年以上前に死んだ、ただの怨霊。あんたが歴史の授業でちょっと聞いて、『かわいそう』って思っただけの過去の女」
コウタが呆然と妊婦を見る。
「あんたのその優しさは、いつも誰かを助ける。私も、この女も、同じように。でもね、コウタ」
カナが妊婦の前に立ちはだかり、ノーマルソードを構える。
「その優しさを、この女に使うな。私が、絶対に許さない」




