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第七十九話:『風の妊婦、あるいは嫉妬の胎動』
「最悪。何よここ。女の幽霊ばっかりじゃない。しかも、なんかみんな変な木の棒持ってるし。武器にするなら、もっとマシなもん持ちなさいよ」
アイアン・パイン製の軽トラを境界の外に捨て、二人は「幻の都」へと足を踏み入れていた。
そこは、都の華やかさなど微塵もない、湿った殺意が立ち込める原町の裏山。
カナはコウタのシャツの裾を、指の色が変わるほどの力で握りしめていた。
周囲には、半透明の農村の女たちが、泥にまみれた姿で徘徊している。
「あれ、『杼』って言ってさ。機織りの道具なんだよ。ここ、普通の仏御前の話とは違うらしい。都から帰ってきた彼女の美しさに、この村の男たちが全員狂っちまって」
「はあ? ハタオリ? 何それ、タピオカの親戚? だいたいさ、そんな男が狂うとか、ただのビッチじゃない。私だって、コウタがそんな女に鼻の下伸ばしてたら、迷わずその木の棒で目玉突き刺すわ」
カナが吐き捨てるように言った、その時だった。
「たすけて……!」
絹を引き裂くような悲鳴が、杉林の奥から響く。
視界が開けた先にいたのは、白い衣を纏った妊婦だった。
泥だらけになりながら、大きなお腹を抱えて震えている。
だが、その顔は驚くほどに整い、透き通るような肌は、この薄暗いダンジョンの中で異様なほど白く発光していた。
「お願い、助けて。村の女たちが、私を殺そうとしてる」
カナの思考が、一瞬で真っ白な殺意に染まる。
(は? 何これ。この女が、あの仏御前の再現体なわけ?)
(めっちゃ可愛い。男が狂うのもわかるわよ。ムカつく。ムカつく!)
隣に立つ男が、一歩を踏み出す。
「助けます」
コウタの声は、いつもと変わらなかった。
ダンジョンでカナの傷を治す時と同じ、淡々とした口調。
スーパーで半額の惣菜を取る時と同じ、平坦な温度。
そこには特別な感情の高ぶりも、哀れみの色もない。
ただ、「助けるのが当たり前」だから助けるだけだ。
カナの心臓が、嫉妬という名の劇薬を全身にブチまける。
「はあ!? ちょっとコウタ、あんたいきなり何言ってんのよ! こいつ、村の男たちをたぶらかした張本人でしょ!」
「そんなの関係ない」
コウタは無表情のまま、妊婦に近づく。
自分のジャケットを脱ぎ、これも特に感情を込めずに彼女の肩にかけた。
「冷えますから」
その声音は、機械のように平坦だ。
妊婦が彼の腕の中で震えている。コウタはただ、それを受け止めている。
カナの中で、何かが軋んだ。
(なんで。なんでそんな、普通なの)
彼女は思い出す。
自分が初めて彼に助けられた時も、同じ顔だった。
傷だらけで倒れていた自分に、彼は無表情で手を差し伸べた。特別な感情なんて、どこにもなかった。
(私だけじゃないんだ。私の時も、これと同じだったんだ)
その瞬間、周囲の闇から、無数の女の叫びが沸き上がった。
「返せ……! うちの旦那を返せ……!」
「あの女さえいなければ……! 村の平和が……!」
「殺せ! その膨らんだ腹ごと、杼で突き刺せ……!」
闇から現れたのは、嫉妬で顔を歪ませ、手にした「木の棒」をナイフのように構えた女たちの怨霊。
彼女たちにとって、仏御前は「救い」などではなく、自分たちの幸福を破壊した「理不尽そのもの」だった。
「にひーっ! ああもう、最悪!」
カナはノーマルソードを引き抜き、魔物の群れへと突進した。
(わかってる。コウタはただ、助けてるだけだ。私の時と同じように。でも、それなのに……)
彼の「普通」が、彼女にとっては最も深い傷になる。
もし彼が特別に感情を込めて妊婦を助けていたら、カナはそれを「浮気」と断じて怒れた。
でも彼は無表情だ。事務的だ。まるで——それが当然の行為であるかのように。
(それって、つまり……私も、この妊婦も、同じなの。彼にとって、私は特別じゃないの)
【飢餓の獣】が、嫉妬という名の燃料で焼け上がる。
「うるさい! 嫉妬するなら、自分たちの男に言いなさいよ! 私のコウタに、変な仕事を増やさないで!」
【絡め取る残火】。
カナの嫉妬が、黒い糸となって亡霊たちを縛り上げる。
だが、その攻撃の半分は、背後の妊婦に向けられた無言の威嚇でもあった。
「思い知らせてやるわ! 千年前の嫉妬なんて、今の私の、『特別でありたい』って情念に比べれば、お遊び同然よ!」
戦場に、風と嫉妬と殺意が渦巻く。
妊婦は、自分を守って立つコウタの背中を、悲しげに、それでいてどこか理解したように見つめていた。
―――
「はあ、はあ。何なのよ、このしつこいババア共! 木の棒振り回して、執念深すぎでしょ!」
アイアン・パイン製のノーマルソードを振り抜き、カナが最後の一体の亡霊を霧へと変えた。
一息ついた彼女の目の前で、守られていた「妊婦」がゆっくりと顔を上げる。
その姿が、月明かりのような不気味な光に照らし出された。
透き通るような白い肌。
切れ長で、すべてを見透かすような漆黒の瞳。
豊かな黒髪は一筋の乱れもなく流れ、大きなお腹を抱えながらも、その立ち姿は神々しいまでの気品に満ちている。
まさに、村の男たちが正気を失い、女たちが殺意を抱くのも納得せざるを得ない、圧倒的な「美」の具現。
「チッ。何よ、そのすました顔。だいたいさ、大昔なんて、美人の基準が今と全然違うはずでしょ。平安時代だか何だか知らないけど、本当はお多福みたいなのがモテたんじゃないの?」
カナはストゼロの空き缶を投げ捨て、自分の金髪を乱暴にかき上げた。
露出の多いハンター装備に、鍛え上げられたしなやかな肢体。
自負はある。
現代の、この「汚れた世界」で生き抜く自分の美しさの方が、ずっと価値があるはずだと。
「見てよコウタ。私のほうが、全然いけてるでしょ。こんな、いつ倒れるかわかんない弱そうな女より、私のほうが……」
カナが同意を求めて隣を振り向いた。
コウタは、妊婦の方を見ていなかった。
無表情で、虚空を見つめている。
彼はただ、そこに立っているだけだ。
特別な感情も、熱も、何もない。
その無関心が、カナの心臓を握りつぶす。
(見てない。彼は、誰も見てない。私も、この女も、同じなんだ)
彼の目に映る「特別」は、どこにもない。
それが、カナにとって最も耐え難い真実だった。
「大丈夫ですか」
コウタが妊婦に声をかける。その声は、やはり平坦だ。
妊婦が小さく頷く。
コウタはそれだけ確認すると、特に感慨もなさそうに、カナの方へ向き直った。
「次、行くぞ」
カナの中で、何かがプツンと切れた。
「ムキーーーッ!! なんで! なんでそんな普通なのよ! あんた、私のこと、特別だと思ったことある!? 私だけじゃないの!? 誰にでも同じなの!?」
コウタは首をかしげる。心底、意味がわからないという顔だ。
「は? 何言ってんだお前。助けるのが当たり前だろ。それのどこが特別なんだ」
その言葉が、カナの胸に深く突き刺さる。
——助けるのが当たり前。
——だから、お前も、この女も、同じだ。
カナは唇を噛みしめ、震える声で呟く。
「にひ。わかった。わかったよ、コウタ。でもね、私はあんたにとって『特別』になる。なってみせる。他の誰とも、同じじゃないって、思い知らせてやるから」
彼女の目に、昏い炎が灯った。
それは、仏御前への嫉妬ではない。
もっと根深い、もっと醜い——「自分は特別じゃないかもしれない」という不安が生み出した、狂気の火だ。
妊婦は、その二人のやり取りを、ただ静かに見つめていた。
その口元に、かすかな笑みが浮かんでいたかどうか。
闇の中で、それは確かめられなかった。




