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第七十六話:『不確かな光、あるいは唯一の真実』
三本目のストロングゼロが空になり、アルミ缶が畳の上で虚しい音を立てた。
窓の外、夜明け前の薄闇が、青白く部屋の輪郭を削り出している。
カナは、酒の熱に浮かされながら、コウタのシャツの裾をぎゅっと握りしめた。
指先が震えているのは、アルコールのせいだけではない。
ふとした瞬間に訪れる、底なしの「未来」への恐怖が、彼女の喉元までせり上がっていた。
「ねえ、コウタ。怖いよ。お金も、時間も、自由も。全部手に入れたところで、私、ずっとこうして不安なままなのかな」
カナの声は、子供のような無防備さで震えていた。
コウタは、最後の一口の日本酒を喉に流し込むと、重い溜息とともに、天井の染みを見つめた。
彼の瞳は、先ほどまでの熱狂とは違う、どこか凪いだ海のような静けさを湛えている。
「映画だとカットされてんだけどな。あれ、本当はお互い不安なんだよ。あの夫婦もさ。未来のこと考えると、足が震えて、立ってらんねえんだ」
「未来のこと? あの、ヒーローも?」
「ああ。過去は変えられねえし、未来は不安しかない。現在だって、仕事と家庭の板挟みで、疲れきってる。それが、あいつの本当の姿だよ。だからさ、あいつは叫ぶんだ。『理不尽を、粉砕する』って。あれは、自分の弱さをぶっ壊すための叫びなんだよ」
コウタの言葉は、まるで自分自身の胸の奥を覗き込んでいるかのようだった。
カナは、彼の胸に顔を埋める。
「現在」という重圧に押しつぶされそうな、生身の男の鼓動が聞こえる。
「そうなの? あんなに強いのに?」
「強いからじゃない。あれは、子供が気づかせるんだよ。あの映画はさ、最初から最後まで、子供が主人公を助け続けてる物語なんだ」
コウタは、カナの頭をゆっくりと撫でた。
その掌は、酒で少し火照っていて、けれど驚くほど穏やかで、温かかった。
「完璧な父親なんて、どこにもいねえんだ。失敗して、絶望して、泥水を啜って。それでも立ち上がれるのは、子供が『お父さん』って呼んでくれるからだ。完璧じゃなくていい、あったかい手があればいいって。あいつに、チームを組もうって言ってくれる存在がいるからなんだよ」
カナは、コウタの語る「救済」の形に、息を呑んだ。
自分が求めていたのは、三億の金でも、広い家でもなかったのかもしれない。
ただ、この不完全な日常の中で、誰かに「そのままの自分」を肯定され、必要とされること。
(にひ。あったかい。コウタの手、あったかいよ)
カナは、コウタの掌に自分の頬を擦り寄せた。
酒が切れ、虚脱感が全身を支配し始める。
けれど、コウタの掌の温もりだけが、暗い海の底に降ろされた錨のように、カナを繋ぎ止めていた。
「コウタ。いつかさ、私たちにも、そんな『チーム』ができるかな」
「今さら何言ってんだよ。とっくに俺ら、チームってか、バディだろ」
コウタは少し照れくさそうに笑い、カナの肩を乱暴に抱き寄せた。
「チーム」という言葉が持つ、どこか義務的な響きを追い越し、「バディ」という、より泥臭く、切り離せない運命を彼は選んだ。
夜が明ける。
また、血と泥と、嘘の配信にまみれた「現在」が始まる。
けれど、二人の胸の奥には、映画の蒼い光よりも静かで確かな、小さな火が灯っていた。
それは、未来という名の怪物を打ち倒すための、たった一つの武器だった。




