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第七十五話:『黄金の檻、あるいは幸福の墓標』
畳の目にこぼれた酒の雫が、電球の光を反射して鈍く光っている。
カナは「実家」という言葉がもたらした冷ややかな空気から逃れるように、コウタの胸元を力任せに小突いた。
アルコールのせいで、思考が泥のように重く、それでいて過敏に波打っている。
「ねえ、コウタ。親がいると、気まずいよ。私、そんなの耐えられない」
カナの声は、拒絶の念を隠そうともしなかった。
自分たちだけの淀んだ聖域に、他人の視線が入り込むことへの本能的な恐怖。
コウタは、空になった酒パックを足元に転がし、天井を仰いで力なく笑った。
「まあ、そうだよな。結局、金と時間か。自由になるためには、どっちも足りねえもんな」
コウタの乾いた声が、狭い部屋に虚しく響く。
現実は、蒼い装甲を纏って粉砕できるほど単純ではない。
カナは、その「行き止まり」を無理やりこじ開けるように、酔った勢いで突飛な仮定を持ち出した。
「ねえ。宝くじ当たったら、どうする? 三億とか、五億とか。想像もできないくらい、いっぱい」
「ああ。よくあるよな、それ。酔っ払いの、定番の妄想だわ」
コウタは興味なさげに鼻を鳴らす。
けれど、カナは止まらない。
その空想の先にしか、自分たちの「理不尽」を消し去る魔法はないと信じ込みたかった。
「私から、言っていい? 聞いてよ、コウタ」
「どうせ、お前は酒だろ。一生分のアイスと、ストゼロを倉庫に詰めて、溺れるまで飲むんだろ」
コウタの呆れたような物言いに、カナの自尊心が僅かに逆撫でされる。
図星でありながら、それを彼に断定されることが、今の彼女には堪らなく癪だった。
「はぁ! あんたはなんなのよ! 人の夢、勝手に決めつけないでよ!」
カナは立ち上がり、ぐらつく足元を必死に踏ん張ってコウタを見下ろした。
頬が赤く染まり、瞳には怒りと、それを上回る深い孤独が混じり合っている。
「金あっても、変わんねえよ。俺たちは、このままだよ」
コウタは、カナの怒りをさらりと受け流した。
その声は、絶望しているというより、あまりにも「自分たち」という存在を理解しすぎていた。
「金があったってさ。俺はきっと、魔物殺しをやめられねえし。お前は、不安を消すために酒を飲み続ける。広い家に住んだって、この六畳一間の空気を、そのまま持ち込むだけだ。場所が変わったって、俺たちは俺たちのままだよ」
コウタは静かに目を閉じた。
それは、宝くじの当選金ですら粉砕できない、二人の魂に刻み込まれた「理不尽」への宣告だった。
カナは、振り上げた拳を下ろすこともできず、ただ立ち尽くした。
(変わらない。コウタは、そう言うんだ)
(どれだけお金があっても。私たちは、このままなの?)
窓の外、夜の静寂がアパートを包み込んでいく。
カナは、崩れるようにコウタの横に座り込み、残っていた酒を一気に飲み干した。
甘ったるい毒が、喉を焼く。
「変わらない」という言葉の絶望に、今はただ、その熱さだけが救いだった。
空になった酒缶が、指の力に耐えかねてペコリと頼りない音を立てた。
カナは、コウタの冷めた言葉を振り払うように、濁った瞳を無理やり見開いた。
脳内を漂う「三億」の幻想が、アルコールの霧にかき消される前に、彼女は自分だけの、歪で、真っさらな夢を形にした。
「私の夢、いま作った。家。子供。お金と、時間。そして、自由がほしい」
それは、ごくありふれた、けれど今の二人からは最も遠い場所にある概念の羅列だった。
コウタは、日本酒のパックをゆっくりと揺らし、底に残った数滴を確認してから、心底おかしそうに笑った。
「なんだそりゃ。そんなもん、この世の人間なら誰だって欲しがるだろ。欲張りすぎなんだよ、お前は」
「コウタもそうなの? コウタも、本当はそれが欲しいの?」
カナが縋るように問いかけると、コウタは少しだけ視線を天井へ泳がせた。
薄汚れた電球の傘に溜まった埃が、微かに揺れている。
「そらそうだ。誰だって、楽して、好きな奴と、広いところで暮らせりゃ最高だわ」
コウタの肯定に、カナの胸の奥が、ポッと小さな火を灯したような熱を持つ。
「好きな奴と」。
その言葉だけで、カナにとっては宝くじの三億よりも価値があった。
彼女は、空いたばかりの三本目の缶を、強引にコウタのグラスにぶつけた。
「コウタ、もっかい乾杯しよ。ねえ、明日も休みにしよ? 仕事なんて、忘れちゃおうよ」
「ああ、飲み過ぎたな。明日も休みだ。これだけ飲んだら、どうせ昼まで動けねえしな」
コウタは投げやりな口調で、それでもカナの勢いに合わせるように杯を空けた。
二人の間の空気は、再び緩慢な自堕落へと沈み込んでいく。
「そろそろ、でも稼がないと。魔物の素材も、最近は安叩きされてっからな」
コウタの独り言のような呟きに、カナは酔った勢いで、心の中に溜まっていた一番大きな疑問を投げかけた。
「ねえ、コウタ。結局、私たち、目指してるもの、一緒なのかな?」
その問いに、コウタは酔いで重くなった瞼を動かし、カナをまじまじと見た。
「目指す」という、前向きで、エネルギーを必要とする言葉。
それは、この澱んだアパートの空気には、あまりにも不似合いだった。
「目指してる? まぁ、俺は今の生活、好きだしな。目指すとか、そんな大層なこと、あんまり考えなかったわ」
コウタは、カナの首筋に手を回し、自分の方へと引き寄せた。
酒の匂いと、男の脂の匂い。
それは、カナにとって世界で一番安心できる「正解」の香りだった。
「このまま、ダラダラしてよ。明日も、明後日もさ」
コウタの言葉は、未来への約束ではなく、現状への固執だった。
カナは、彼の胸板に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
(にひ。一緒だ。コウタも、今のままでいいんだ)
(目指さなくていい。どこにも行かなくていい。ずっと、ここが私たちの、三億の家なんだ)
窓の外では、夜明け前の予感が、空の端をわずかに白ませ始めていた。
けれど、この六畳一間の中だけは、冷たい現実が入り込む余地のない、永遠に続く「映画の続き」だった。




