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第七十三話:『幸福の形、あるいは忘却の果て』
カナは床に転がった惣菜の空容器を見つめた。
半額シールの端が剥がれ、乾燥して丸まっている。
二本目のストロングゼロは、もう半分も残っていない。
思考の縁がぼやけ、自分が今、アパートの畳の上にいるのか、それともまだ映画館の暗闇に漂っているのか、境界が曖昧になっていく。
「……たまには、映画もいいね。……なんか、ちょっとだけ、世界が広く見えた気がする」
カナが呟くと、コウタは日本酒のパックを畳に置き、少し申し訳なさそうに肩をすくめた。
彼の瞳からは先ほどの熱狂が少しだけ引き、代わりにいつもの、どこか諦観の混じった優しさが戻っている。
「……なんか、ごめんな。……あんなアクションばっかりの、男向けすぎたかもな。……カナには退屈だったろ」
「……ううん。……いいよ。……ねえ、コウタ。……私たち、いつまでこのままなのかな」
カナの声は、アルコールの熱に浮かされながらも、ふとした瞬間に現実の裂け目を見つけてしまったような、危うい響きを帯びていた。
「……? ……このままって、何がだよ」
「……全部。……配信して、魔物殺して。……安いお酒飲んで、寝るだけの日々。……お金と、時間。……もっといっぱい、ほしいね。……そうしたら、何かが変わるのかな」
カナは、自分の指先を見つめた。
魔物の返り血は洗い流せても、心の奥にこびりついた、将来への漠然とした不安だけは落ちない。
コウタは、そんなカナの言葉を鼻で笑うように、けれど否定はせずに答えた。
「……どうせ俺たちならさ。……金と時間がいっぱいあっても。……結局、ここでこうして、安い酒飲みながらスーパーの惣菜食ってるよ。……それが、俺たちに一番似合ってるだろ」
コウタの言葉は、残酷なまでに正確だった。
どれだけ金を稼ごうと、自分たちの魂がこの安アパートの湿り気から抜け出せるイメージが湧かない。
カナは、そんなコウタの「諦め」を愛おしく思い、同時に、それだけでは埋められない空洞を、映画で見たあの「光」で埋めようとした。
「……こども」
カナの口から漏れた、あまりに唐突で、場違いな単語。
コウタは、一瞬だけ動きを止め、驚いたようにカナの顔を凝視した。
「……は? ……何言ってんだよ、急に」
「……だって。……あの映画のコウタも。……最後は子供に救われてたでしょ? ……私にも、……私たちにも。……そんな『生きる意味』があれば。……この地獄みたいな日常も、……耐えられるのかなって」
カナの瞳は、九パーセントの毒に濡れて、異様な輝きを放っていた。
しかし、コウタはあきれたように溜息をつくと、冷酷なまでの「現実」を突きつけた。
「……カナ。……ちなみにな。……お前、妊娠したら酒飲めないって知ってるか?」
「……えっ」
カナの時が、止まった。
手に持っていたストロングゼロの缶が、指先から滑り落ちそうになる。
酒が飲めない。
この、自分を唯一現実から切り離してくれる「九パーセントの毒」を、十ヶ月もの間、一滴も口にできない。
それはカナにとって、魔物との戦いよりも、配信での罵倒よりも、遥かに恐ろしい「理不尽」に思えた。
(……お酒が、飲めない? ……コウタと一緒に、こうして乾杯できないの?)
(……そんなの。……そんなの、私……正気でいられるわけないじゃん)
カナの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
コウタはそれを見て、からかうような、けれどどこか慈しむような目で笑った。
「……ほら、無理だろ。……お前から酒奪ったら、何も残らねえもんな。……子供どころか、俺のことも殴り出しそうだわ」
「……そ、そんなこと、……ないよ。……でも。……十ヶ月……。……一滴も?」
「……ああ。……一滴もだ。……だから、俺たちにはまだ、ヒーローごっこは早すぎるんだよ。……とりあえず今は。……この安酒で、今日を粉砕するだけで精一杯だ」
コウタは、新しい日本酒のパックを開けた。
カナは、震える手で自分の缶を握り直し、中身を喉に流し込んだ。
先ほどまで眩しく見えていた「子供」という光が、急に自分を縛り付ける、重たい鎖のように感じられた。
(……にひ。……そうか。……お酒、飲めないんだ。……なら、まだ。……いいかな)
カナは、安堵と、言葉にできない喪失感を同時に味わいながら、コウタの膝に頭を乗せた。
九パーセントの毒が、再び彼女を、心地よい無知の底へと沈めていく。
窓の外では、明日もまた繰り返される、代わり映えのしない夜が深まっていた。




