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第七十二話:『仮面の英雄、あるいは夜の断罪』
部屋の隅、使い古された小型冷蔵庫が、低く唸るような振動音を立てている。
それが止まるたび、静寂が重たい湿気を伴って、二人の隙間を埋めていく。
カナは、二本目のストロングゼロの缶を両手で包み込むように持ち、その冷たさを掌で確かめた。
アルコールが、血管を伝わって脳の芯を痺れさせていく。
視界がわずかに歪み、天井の薄汚れた電球の光が、まるで遠くの星のように明滅して見えた。
コウタは、座椅子に身体を預けたまま、虚空を見つめている。
彼の意識はまだ、あの蒼い光が弾けるスクリーンの向こう側に半分ほど取り残されているようだった。
劇中の主人公「コウタ」が、絶望という名の理不尽を粉砕した、あの瞬間。
現実のコウタもまた、そのカタルシスの残滓を反芻し、自身の内に眠る何かを呼び覚まそうとしている。
カナは、そんな彼の「不在」に耐えられなかった。
彼の熱狂が、自分に向けられたものではなく、架空の物語に向けられていることが、冷たい棘となって胸を刺す。
彼女は、少しだけ掠れた声を絞り出した。
「……ねえ。もしもよ。……コウタ。……キャプスマになれたら、どうする? ……あの、奥さんとさ」
カナの問いは、湿り気を帯びていた。
劇中のコウタには、守るべき家族がいた。
離婚を突きつけられ、生活の崩壊に直面しながらも、最後には拳で「未来」を繋ぎ止めた相手。
コウタは、ゆっくりと視線を動かし、カナの瞳を真っ直ぐに見つめた。
その瞳は、酒のせいか、あるいは感情の高ぶりのせいか、少しだけ充血している。
彼は深く息を吸い込み、畳の匂いとアルコールの香りを肺に満たした。
「……奥さんと、か。……そうだな。……もし俺が、あの蒼い装甲を纏えるなら。……迷わず、あの離婚届を粉砕するだろうな。……あの映画のコウタと同じようにさ」
コウタの声は、確かな決意を帯びていた。
彼はまるで、自分自身がその役割を担うべきだと、強く信じ込んでいるかのようだった。
「……粉砕、しちゃうんだ。……あんなに酷いこと言われてたのに? ……もうやっていけないって、言われてたのに?」
「……ああ。……だって、あれは彼女の本心じゃねえんだよ。……ただの、理不尽な絶望に押しつぶされて、叫んでただけなんだ。……だから、その絶望をぶっ叩いて、更地にしてやる。……それが、ヒーローの役割だろ。……お互いつむような未来を、力ずくで書き換えてやるんだよ」
コウタが語る「救済」は、あまりに一方的で、暴力的なまでに純粋だった。
彼は、理不尽という名の壁を壊すことの正義に、陶酔している。
カナは、その言葉を聞きながら、心の奥底で激しい嫉妬の炎が揺らめくのを感じた。
映画の中の「妻」に向けられた、彼の、そのあまりにも献身的な殺意。
(……にひ。……奥さんを、守るんだ。……あんなにコウタを拒絶してた女を。……ヒーローになってまで)
カナは、コウタの腕に、さらに深く爪を立てるようにしてしがみついた。
彼女にとっての理不尽は、映画のようなドラマチックな「家族の崩壊」ではない。
明日もまた、コウタと二人で、嘘の「不仲」を演じながら魔物を殺し続けなければならない、この停滞した日常そのものだ。
「……コウタは、優しいね。……でも、現実には蒼い光なんてないよ。……装甲も、拳も。……あるのは、このボロいアパートと、軽トラと。……わたしたちの、嘘っぱちの配信だけ」
「……わかってるよ。……だから、余計に刺さるんだ。……あの映画はさ、俺たちに『日常を大切にしろ』って言ってるんだよ。……理不尽がモンスター化する前に、ちゃんと向き合えってな」
「……向き合う、か。……コウタ。……わたし、……奥さんじゃないけど。……ここに、いるよ?」
カナの声が、震える。
彼女は、コウタの視界から「映画の幻影」を消し去りたかった。
彼が見ている「理想の自分」や「守るべき家族」ではなく、今、ここで九パーセントの毒に溺れている、自分という醜い現実を見てほしかった。
「……ああ。……お前は奥さんじゃねえよ。……カナだ。……俺の、ビジネス不仲の相棒で。……一緒に、泥水を啜ってる唯一の人間だ」
コウタは、カナの頭を乱暴に、けれどどこか愛おしそうに撫でた。
その手のひらの熱が、カナの頭蓋を通じて全身に広がっていく。
「……仲良くしてなきゃ、な。……あの映画みたいに、手遅れになる前に。……お互い、大切にしましょうって。……まあ、俺たちの場合、カメラの前じゃ真逆のことしなきゃいけないのが、一番の理不尽だけどな」
コウタは自嘲気味に笑い、残っていた日本酒を一気に飲み干した。
空になったパックが、くしゃりと音を立てて潰れる。
カナは、その音を聴きながら、彼の胸に顔を埋めた。
(……大切に。……大切に。……にひ。……言ったね、コウタ)
(……なら、私からも逃げないで。……私がどんなに理不尽になっても。……粉砕して、繋ぎ止めてよ)
窓の外、夜の闇がさらに深まっていく。
軽トラの荷台に積まれたドローンが、風に吹かれて金属音を立てた。
明日になれば、彼らはまた「ヒーロー」とは程遠い、歪な役割を演じなければならない。
けれど、今この瞬間だけは。
狭いアパートの、安酒の匂いに満ちた空間だけが、二人にとっての「粉砕された未来」の破片のように、静かに輝いていた。
カナは、コウタの鼓動を耳で聴きながら、ゆっくりと瞳を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、蒼い炎を纏ったコウタ。
そして、その腕の中で、泣きながら笑っている自分の姿だった。
(……ねえ、コウタ。……次は、どんな理不尽を殴りに行こうか)
(……私、……コウタとなら、地獄の果てまで、スマッシュできる気がするよ)
夜の澱みは、二人を包み込み、深く、深く、沈めていく。
それは救済でもあり、断罪でもあった。




