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第七十一話:『崩壊の予兆、あるいは救済の虚像』

 畳の上に放り出された、映画『キャプテン・スマッシュ』の半券が、微かな風に揺れて裏返る。

 劇場の巨大なスピーカーから放たれていた重低音の余韻が、まだ耳の奥で、心臓の鼓動を急かしていた。

 部屋の空気は、カナが開けた二本目のストロングゼロの、甘ったるくも刺すような人工的な香りに支配されている。

 コウタは座椅子に深く背を預け、日本酒のパックを指先で弄びながら、いつになく熱を帯びた声で言葉を紡いだ。


「……コウタ。……子供、かわいいよね。……あの映画見てさ、……なんか、思っちゃった」


 カナが上目遣いで、探るようにコウタの横顔を覗き込む。

 その声には、アルコールでは隠しきれない、縋るような期待が混じっていた。

 しかし、コウタはカナの視線を受け止めることなく、天井の一点を見つめたまま首を振った。


「……違う。……かわいいなんて、そんな軽いもんじゃねえんだよ。……子供はさ、生きる意味そのものなんだ。……だから、あのオヤジさんは立ち上がったんだ。……自分が死ぬことより、あいつが笑わなくなる未来の方が怖かったんだよ」


 コウタの言葉には、日々のハンター稼業で摩耗したはずの、乾いた情熱が宿っていた。

 彼はまるで、劇中のヒーローに魂を貸し出しているかのように、その「意味」を噛み締めている。

 カナは、自分たちの手には届かない場所にあるその「重み」に、胸が詰まるような感覚を覚えた。


「……そう、なんだ。……じゃあ、奥さんは? ……あんだけ怒鳴り合ってさ。……最後、どうなったの?」



「……ああ。……あれは、ただのすれ違いだよ。……でもさ、現実問題として、あの二人が離婚したらお互いつむんだよ。……将棋で言えば王手がかかった状態で、もう逃げ場なんてねえんだ」



「……つむ? ……なんで? ……離れた方が、楽になれるんじゃないの?」


 カナの問いに、コウタは自嘲気味な笑いを浮かべ、酒を一口煽った。

 その瞳に、冷徹なまでの「現実」の計算が過る。


「……金と時間だよ。……今の世の中、一人で子供抱えて生きていくなんて、資産を切り崩しながら底なし沼を歩くようなもんだ。……養育費だ、慰謝料だって削り合いになれば、男の方は生活の基盤が崩壊する。……女の方は、キャリアを捨てて育児に忙殺されて、貧困のループから抜け出せなくなる。……どちらかが欠けた瞬間に、子供の未来も、自分たちの老後も、全部まとめてゴミ箱行きだ。……お互い、嫌い合ってても、離れることすら許されない地獄だよ」


 コウタの口から漏れる、AIが算出したかのような冷酷なシミュレーション。

 それは、映画の蒼い光とは対照的な、現実のドロドロとした損得勘定だった。

 カナは、その言葉の鋭さに身を震わせ、自分の震える手を隠すように膝を抱えた。


「……コウタ。……わたしたちに、……こども、そだてれるかな?」


 震える声で紡がれた、あまりに無謀で、けれど切実な願望。

 カナの瞳には、今の自分たちの生活——酒と、魔物と、嘘の配信——を、すべて焼き払ってしまいたいという、破滅的な希望が宿っていた。


「……ああ。……あの映画見てさ、思ったよ。……俺たち二人、仲よくしてなきゃだなって」



「……なんで? ……急に、どうしたの?」



「……だって、あれもう末期だろ。……子供がわざわざゲーム誘って、仲を取り持たないといけないなんてさ。……親として、人間として終わってる。……子供にそんな役割を背負わせる前に、大人がちゃんとしなきゃいけないんだよ」


 コウタの言葉は、カナにとっての福音であり、同時に呪縛でもあった。

 「仲良くする」という、至極当然の言葉。

 それが、自分たちのような歪な関係において、どれほどの重圧を伴うものか。


「……そうだね。……ねえ、コウタ。……もし、わたしとの将来が、ああなったらどうする?」



「……ああ。……あの映画はさ、そうならないための映画なんだよ。……たぶん」



「……えっ! ……そうなの? ……もっとこう、悪いやつをぶっ飛ばす話じゃなかった?」



「……ちゃんとお互い、大切にしましょうって。……そういう警告みたいなもんだよ。……日常の小さなヒビを放置して、理不尽なモンスターに変えてしまう前にさ。……気づけよ、っていうメッセージなんだ」



「……えっ? ……そんなんやったっけ? ……ただのアクションじゃなかったの?」



「……あれは、演出っていうか、客を呼ぶためのガワだよ。……アクションシーンは派手だけど、原作の魂はもっと別のところにある。……キャプテン・スマッシュの拳はさ、敵を倒すためじゃなく、……壊れかけた『当たり前』を繋ぎ止めるためのもんなんだよ。……原作は、もっと泥臭くて、痛いんだ」


 コウタは興奮を隠しきれない様子で、使い古されたコントローラーを手に取った。

 テレビ画面に映る、無表情なメニュー画面。

 そこに映る自分たちの影は、あまりに細く、今にも夜の闇に吸い込まれてしまいそうだった。

 

 カナは、そんなコウタの横顔を見つめながら、心の奥底で昏い悦びを感じていた。

 (……大切に。……コウタが私を、大切にする。……にひ)

 (……なら、逃げないよね。……理不尽なことがあっても、私を離さないよね)

 

 カナはそっと、コウタの背中に頭を預けた。

 アルコールの熱の向こう側に、彼が見ている「光」の残像が、まるで自分たちを祝福しているかのように錯覚する。

 けれど、窓の外で待っているのは、明日もまた血と泥にまみれる、ハンターとしての日常だった。


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