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第七十話:『歪な残響、あるいは虚飾の食卓』

 アパートの、わずか十ワット程度の薄暗い電球の下。

 スーパーの蛍光灯に晒されていた剥き出しの現実は、一気に夜の澱みに塗り潰される。

 六畳一間の狭い空間には、湿った畳の匂いと、微かに鼻を突く安っぽい芳香剤の香りが混じり合って停滞していた。

 窓の外、月明かりを浴びて鈍く光るのは、二人の生活の生命線であるアイアン・パイン社製の軽トラ「ダンジョンキャリーMK-II」の影だ。

 荷台に積まれたドローンのファンが、風に煽られて時折、カラカラと乾いた音を立てる。

 床に置かれたビニール袋の中で、銀色のアルミ缶が、互いの冷たさを奪い合うように重なり合っていた。

 カナは椅子に座ることもせず、畳の上に力なく崩れ落ちると、震える指先で缶のプルタブを弾いた。

 

 プシュッ。

 

 鼓膜を震わすその音は、現実逃避への号砲だ。

 立ち上る炭酸の飛沫が、カナの頬に冷たく張り付いた。

 


 

「……乾杯。コウタ。映画、お疲れさま」

 


 

 カナは九パーセントの毒を一口、喉の奥へと叩き込んだ。

 焼けるようなアルコールの刺激が、冷徹に食道を通り抜け、胃の腑に熱い塊を落とす。

 コウタは自分の日本酒のパックを開け、喉を鳴らして安っぽい液体を胃に流し込んだ。

 


 

「……そうだな。乾杯。なあ、カナ。そろそろ、俺、働かないとなって。ハンターとして、また潜らねえと。金も、底をつくぞ」

 


 

 コウタの言葉は、どこか遠い場所から響いているようだった。

 明日になれば、また「ビジネス不仲」の仮面を被り、あの軽トラに乗り込んで、配信用の殺戮を繰り返す日々が始まる。

 カメラの前では罵り合い、投げ銭を煽り、酒を煽る。

 そのサイクルだけが、二人の関係を維持する唯一の動力源だった。

 

 カナは、自分を蝕む焦燥感を誤魔化すように、身体をコウタへと寄せた。

 酒の匂いが混じった彼の体温を感じ、その腕に自分の指先を絡ませる。

 ねっとりとした湿度を帯びた、独占欲の表れ。

 けれど、いつもなら無気力にそれを受け入れるはずのコウタが、今日は違った。

 彼はカナの手を緩やかに振り払うようにして、上気した顔で語り始めた。

 


 

「……なあ。すごかったよな。あの映画。『キャプテン・スマッシュ』。あのコウタって男、マジで格好良かったわ」

 


 

 カナは、虚を突かれたように目を見開いた。

 コウタがこんなに饒舌になるのは、いつ以来だろうか。

 彼の瞳には、普段の濁った光ではなく、子供のように純粋で、どこか狂気すら孕んだ熱が宿っている。

 


 

「……離婚届を前にしてさ。あの理不尽な未来を、拳一つで粉砕するんだぜ。蒼い光がバァーって溢れてよ。かっこよすぎだろ」

 



 

「……そうね。すごかったわね(……えっ、そんな映画だった? やばい、私、全然……)」

 


 

 カナの脳裏をよぎるのは、映画館の暗闇で感じていた、得体の知れない不安だけだ。

 三階の「子供パーク」で見た光。

 自分たちには一生縁のない、眩しすぎる世界の残像。

 


 

「……最後に息子がさ。お父さんは僕のヒーローだよ、って。笑うんだよ。あそこ、マジで泣きそうになったわ。俺もあんな風にさ。誰かの理不尽を、ぶっ飛ばしてやりてえなって」

 


 

 コウタは空の酒パックを握りつぶし、熱っぽく語り続ける。

 彼が見ているのは、目の前にいるカナではない。

 映画という名の、都合のいい鏡に映った「理想の自分」だ。

 


 

「……息子か。カワイカッタネ? でも、あれって、ただのゲームの話でしょ?」

 



 

「……わかってねえな。ゲームじゃねえんだよ。あれは、未来との戦いなんだ。負けても負けても、コントローラーを離さない。立ち上がるのがヒーローなんだってさ」

 


 

 カナの胸の奥で、鋭いトゲがチクリと刺さった。

 「息子」「ヒーロー」「立ち上がる」。

 その言葉の一つ一つが、今の自分たちが置かれた「澱み」を、残酷なまでに際立たせる。

 

 映画の中のコウタは、離婚届を破り捨て、家族を救った。

 けれど、現実のコウタは、カナという「重石」を抱え、軽トラの荷台に魔物の死骸を積み上げるだけの、名前のないハンターだ。

 配信用のカメラが回れば、彼女を罵倒し、ストゼロを飲み干す姿を切り売りする。

 そこには蒼い光も、自分をヒーローと呼ぶ息子もいない。

 

 カナは、逃げ場を失ったように、さらに酒を煽った。

 アルコールが思考を塗り潰していく。

 


 

「……へぇ。コウタ、あんな子供がほしいの? 私じゃ、ダメなの?」

 


 

 カナの声は、自分でも驚くほど湿っていた。

 それは問いかけというより、深い沼の底から聞こえる、湿り気を帯びた執着の叫びだった。

 


 

「……何言ってんだよ。映画の話だろ。……あー、明日も潜るのか。クソ理不尽だな、現実は」

 


 

 コウタはふい、と視線を逸らし、再び酒を煽った。

 彼の熱狂は、あくまでスクリーンの向こう側の出来事に対してだけ向けられている。

 隣で自分を求めているカナの存在は、今の彼にとって、映画の余韻を邪魔するノイズでしかないようだった。

 

 部屋の隅に置かれた漫画の袋が、まるで生き物のように、カナの視界で不気味に膨らんで見えた。

 (……にひ。ヒーロー。息子。理不尽)

 (……そんなの、全部嘘っぱちじゃん。……コウタは、私のものなのに)

 

 カナの瞳から、少しずつ理性が剥がれ落ちていく。

 ストロングゼロの空き缶が床に転がり、乾いた音を立てた。

 夜はまだ、始まったばかりだ。

 

 


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