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第六十九話:『銀色の絶壁、あるいは未来の切り捨て』
一階、酒類コーナー。
そこには、三階の温かな家族連れの姿も、静謐な本の匂いも存在しない。
ただ、天井から降り注ぐ蛍光灯の青白い光を無機質に反射する、銀色のアルミ缶が壁のようにそびえ立っていた。
カナの足取りは、ここに来てようやく迷いを失った。
迷わず、吸い込まれるように、九パーセントのアルコールが詰まったストロングゼロの棚の前へと陣取る。
結露した缶の表面が、冷房の冷気と混ざり合って、微かな湿り気を帯びている。
「……コウタ、酒買わないの?」
カナは棚から目を離さず、背中で問いかけた。
その声はどこか平坦で、先ほどまでの「ニタニタ」した湿り気が消えている。
コウタは手に持ったレジ袋――三階で買った、数冊の漫画が入った、小さな「外の世界」――を少しだけ持ち上げた。
「……いや、今日はいいわ。漫画買ったし」
「へー……」
カナの口から漏れたのは、感情の温度が完全に欠落した、乾いた一言だった。
彼女はそれ以上何も言わず、機械的な動作で銀色の缶を掴み始めた。
ガチャン。
重みのある金属音が、空のカゴに響く。
一本、二本。
カナの手は止まらない。
六缶パックを二つ、その上にさらにバラの缶を数本、乱暴に叩き込んでいく。
それはもはや「買い物」ではなく、崩れかけた自分の輪郭を埋めるための、絶望的な埋め立て作業のように見えた。
(……なんで。……なんで、そんなの買うの)
カナの脳裏には、コウタが大切そうに抱えている漫画の袋が、自分を拒絶する壁のように映っていた。
さっきまで、映画を一緒に見ていたはずだった。
同じ暗闇の中で、同じスクリーンを見つめて、あんなに近くにいた。
あの時間は、あの温もりは、コウタにとっては「漫画一冊」で上書きされてしまう程度のものだったのか。
映画の終わりと共に訪れたはずの余韻は、蛍光灯の冷たい光の下で、見る影もなく霧散していた。
(映画、楽しかったじゃん。映画の後は、二人で感想とか言ってさ、またあの部屋で……)
ぐちゃぐちゃになった思考を止めるために、カナはより一層の速度で缶をカゴに投げ込む。
コウタが「自分のためのお金」を使ったという事実が、カナの胸に「お前は一人だ」という冷たい宣告を突きつけてくる。
(もう、考えたくない。……どうして。……ねえ、コウタ。……助けてよ)
叫びたかった。
漫画なんて捨てて、そのお金で全部私の酒を買ってよ。
私の脳を溶かすための手伝いをしてよ。
そうやって、私と一緒に、取り返しのつかないところまで堕ちてよ。
カナの指先が、冷え切ったアルミの感触に麻痺していく。
「……おい、カナ。酒買いすぎだろう」
コウタの戸惑うような声が聞こえる。
それは、カナを心配しているようでいて、その実、三階の平和な世界に片足を残したままの、安全圏からの呼びかけに聞こえた。
「いいじゃんべつに。私のお金なんだし」
カナは振り返りもせず、冷たく言い放った。
「自由にお金を使う」という行為。
三階でコウタが示したそのささやかな権利を、彼女は圧倒的な物量と、自分自身を壊すための暴力的な沈黙で上書きしていく。
「……カナ。惣菜選んできていい?」
「何よ」
カナがようやく顔を半分だけこちらに向けた。
その瞳の奥には、コウタが必死に守ろうとした「自分だけの領域」を、泥水ですすぎ落とした後のような、空虚な満足感が漂っていた。
「適当に私のも選んできて。から揚げとイカリング欲しいかも」
「……サラダセットにするわ」
コウタの消極的な抵抗に、カナは「ふん」と鼻を鳴らした。
レジカウンターでは、店員が淡々とバーコードを読み取る音が響く。
カナは財布からくたびれた千円札を三枚、指先で弾くように取り出した。
その動作一つ一つが、コウタには自分への無言の抗議のように見えて仕方がなかった。
スーパーの自動ドアが背後で閉まった瞬間、人工的な冷房の残滓が夜の生温い空気に霧散した。
アスファルトから立ち上る昼間の熱気が、肌をじっとりと撫でる。
カナの両手に下げられた重いレジ袋は、歩くたびにその重みで持ち手が細く引き絞られ、彼女の白い指にどす黒い赤紫の線を刻みつけていた。
コウタは中古の軽自動車のバックドアを開け、自分の買った漫画の袋を、隅の方へ押し込んだ。
対照的にカナは、銀色の缶が詰まった重い袋を、助手席の足元に力任せに置いた。
「……おい、カナ。袋だけでも後ろの荷室に入れろよ。足元狭いだろ」
「……いい。……これ、私の『今日』だから。そばに置いとかないと、落ち着かないの」
カナはシートベルトを締めながら、拒絶するように言い放った。
エンジンをかけると、古びた車体がガタガタと不快な震えを上げた。
エアコンからは夜の湿った風が吹き出し、車内の澱んだ空気をかき混ぜる。
街灯の光がフロントガラスを次々と横切り、二人の沈黙を細切れに照らした。
踏切の手前で、カンカンと警報音が鳴り響いた。
遮断機が降り、赤い光が交互に明滅する。
その光は規則正しく車内を赤く染め上げ、カナの横顔を脈打つ鼓動のように浮かび上がらせた。
カナは窓の外を流れる貨物列車の風圧で車体が微かに揺れるのを感じながら、じっと、前を見つめるコウタの横顔を盗み見た。
(行かないで。……漫画の世界に逃げないで。……私を見てよ。指がこんなに痛いのに、あんたのために、私たちの今夜のために、これだけの毒を用意した私を見てよ)
「……ねえ、コウタ。……さっきの映画、ラストのシーン、どう思った?」
「……ああ、えっと。……あいつ、結局死んだのかな。よくわかんなかったけど」
「……死んだんだよ。……全部失くして、一人で。……あんなの、嫌だね」
カナは自嘲気味に口角を歪め、窓の外の暗闇を見つめた。
遮断機が上がり、車は再び動き出す。
アパートまでの道のりは短く、けれど二人の間に流れる時間は、海底を這うように重苦しく、長い。
アパートの駐車場に滑り込む。
ヘッドライトを消すと、世界は一瞬で深い闇に包まれた。
車を降りる際、カナは重い袋を抱え直すと、錆びた鉄の階段を見上げて小さく、けれど抗いようのない力で笑った。
「……やっと着いた。……ねえ、コウタ。……もう、外のことなんて考えなくていいよ」
玄関のドアを開けた瞬間、鼻を突いたのは、換気扇の回っていない澱んだ空気。
洗濯物の生乾きの匂いと、酒の残り香が混ざり合った、逃げ場のない「檻」の匂い。
カナは部屋に入るなり、重いレジ袋を床に叩きつけるように置いた。
ビニールの中で缶が崩れる鈍い音が、静まり返った部屋に響く。
「……ああ。……飲もうか」
コウタの言葉を待っていたかのように、カナは迷わず一本の缶を手に取った。
プシュッ、と。
静寂を切り裂いて、銀色の缶が開く音が響く。
それは、このアパートという名の海底へと沈んでいくための、最後のアナウンスだった。




