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第六十八話:『積まれた沈黙、あるいは理解不能の執着』
三階のレジ。
コウタが差し出した数冊の新刊を眺めながら、カナはあきれたように鼻を鳴らした。
「……ねえ、コウタ。何買ったの? 買いすぎじゃない?」
コウタは何も答えず、財布から千円札を取り出した。
レジ袋の中で重なる、ずっしりとした紙の感触。
彼にとっては、それが唯一「外の世界」と繋がっている証だった。
だが、カナはエスカレーターへ向かう道すがら、しつこくその袋を覗き込んでくる。
「それで、これどんな内容なの? 面白いわけ?」
カナが何気なく中身を尋ねると、コウタは視線を泳がせながら、小さく首を振った。
「……いや、今はどんなんか、わかんねえ」
「はっ? どゆこと? 続きでしょ、これ」
カナが眉をひそめて顔を覗き込んでくる。
コウタは重い口を開いた。
「まだ新刊まで読んでないんだ。……前のやつも、袋からも出してないし」
一瞬、カナの動きが止まった。
彼女は心底理解できないという顔で、コウタが持つレジ袋を指差した。
「意味わかんないんだけど。読まないのに買うの? ……だったら余計、サブスクにしたら? 邪魔なだけじゃん」
「……いや、紙なんよ。やっぱり」
「なんで? 携帯の方が便利じゃん。どこでも読めるし」
「なんでって……。うーん、紙のほうが好きでいいじゃん。集めてんだよ」
コウタの答えに、カナは「ニタニタ」と歪な笑みを浮かべ、彼の腕に指を深く絡ませた。
「……ふふ、遅れてるわ。笑っちゃう」
カナは満足げにそう笑い飛ばすと、再び空のカゴをぶんぶんと振り回し始めた。
一階へ向かうエスカレーターの揺れに身を任せながら、カナは「ニタニタ」と楽しそうにコウタの顔を覗き込んだ。
「ねえ、コウタ。もしさ、その漫画、実家にあるやつ全部あのアパートに持ってきてって言ったらどうする?」
カナの言葉に、コウタは心臓が跳ねるのを感じた。
実家の自室を埋め尽くす、あの膨大な蔵書。
それが、あの湿ったアパートに運び込まれる光景を想像し、背筋に冷たいものが走る。
「……いや、俺の漫画、めちゃくちゃあるぞ。あんなボロアパート、置き場ねえよ」
拒絶の言葉を吐くコウタの横で、カナは勝利を確信したように鼻を鳴らした。
「ほら、やっぱりスペースとるじゃん。邪魔なんだって」
カナは満足げに腕に力を込め、コウタをより深く自分の側へと引き寄せた。
「カナチンだって、今日の映画には感動したよ? 続きも気になるけど……。でもさ、物が増えるのは嫌。……ねえ、やっぱり電子にしなよ」
彼女の言い分は、どこまでも合理的で、それでいて逃げ道を塞ぐ蛇のようだった。
紙の本を捨てろということは、実家という拠点を捨てろと言っているのと同義だ。
コウタは手に持ったレジ袋を、指が白くなるほど強く握り締めた。
「……それでも、俺は紙がいいんだよ」
「ふーん。……頑固だねえ。でも、いつまでそうしてられるかな」
エスカレーターがゆっくりと一階へ降りていく。
ベルトコンベアのように運ばれる時間の中で、カナは獲物をいたぶるような笑みを深めた。
「……ねえ、コウタ。紙がいいって言ってもさ、昔売って後悔したから買い直してるって矛盾してない?」
コウタは心臓を掴まれたような衝撃に、息を呑んだ。
「また読みたくなった時、サブスクだと新刊価格で高いだろ。古本なら百円で買えるし、手元にある安心感が……」
言い訳を絞り出すコウタの言葉を、カナは鼻で笑って遮った。
「あんた、今これ新刊で買ってんじゃん。値段とか関係なくね?」
図星だった。
コウタは言い返す言葉が見つからず、視線を泳がせる。
「それにさ、漫画描いてる人のこと応援してんじゃないの? リスペクトするなら古本なんて買うなよ」
「……え?」
コウタが呆然と声を漏らすと、カナは勝ち誇ったように身を乗り出してきた。
「古本買ったって、作者には一円も金が入んないんだよ? 本当に好きなら電子で全巻買い直しなよ。それが一番の応援じゃん」
「……カナ、なんでそんな詳しいんだよ」
カナは「ニタニタ」と歪な笑みを浮かべ、コウタの腕に爪を立てるように指を絡ませた。
「ふふ、遅れてるわ。笑っちゃう」
カナは満足げに笑い飛ばすと、一階のフロアに降り立った瞬間に、獲物を探す獣のような足取りで食料品売り場へと向かった。
色とりどりの野菜や肉には目もくれず、彼女が真っ先に向かったのは、銀色の缶が壁のように積み上がった酒類コーナーだった。
「……あれ。ねえ、コウタ。……見てよ。あれ、ルカハルじゃない!?」
ストロングゼロの重い袋を提げたカナが、エスカレーターの手前で足を止める。
指差した先。
ルカはサングラスもせず、真っ赤に腫らした目で、メイクが崩れるのも構わずに俯いていた。
隣を歩くハルキもまた、唇を噛み締め、視界を滲ませたまま、ただ虚空を見つめている。
「……ほんとだ。……めっちゃ泣いてるやん」
コウタは息を呑んだ。
画面の中で「らぶちゅらぶちゅー!」とはしゃいでいる彼らしか知らないコウタにとって、その涙は、あまりにも「純粋な愛」の証明に見えた。
「……すごいわね。……映画観て、あんなに一つになれるなんて。……やっぱり理想のカップルだわ」
カナの瞳に、憧憬を通り越した、狂気的なまでの「嫉妬」が宿る。
自分たちは安酒と漫画の捨て場所で罵り合っているのに、彼らは同じ感動を共有し、同じ涙を流している。
その「一体感」が、今のカナには、喉から手が出るほど欲しい宝石に見えた。
「……ちょっと、聞いてくる」
「おい、カナ! よせよ!」
コウタの静止を振り切り、カナはルカたちの前に飛び出した。
ルカとハルキは、不意に現れた「現実のノイズ」に、肩を大きく跳ねさせた。
「……あの! 応援してます! 私、お二人の大ファンで……!」
カナの真っ直ぐな、けれど「生臭い」視線に、ルカの瞳が微かに揺れる。
ハルキは反射的に「ハルキ」の仮面を被ろうとしたが、震える指先がそれを拒んだ。
「……あの、お二人の動画、いつも見てて。……どうすれば、お二人みたいに、……あんなに仲良くなれるんですか?」
コウタも堪らず、カナの隣で言葉を添えた。
「……僕たち、いつも喧嘩ばっかりで。……あんな風に、一緒に泣けるような関係になりたいんです。……コツとか、あるんですか?」
その瞬間。
ハルキの喉の奥から、乾いた、悲鳴のような嗚咽が漏れた。
ルカは、堪えていた涙が決壊するように、両手で顔を覆った。
「……えっごめんなさい……?」
コウタが狼狽する。
憧れの「強者」たちが、自分たちの何気ない質問に、まるで急所を突かれたように崩れ落ちていく。
「……あ、……ああ。……ごめん」
ハルキは、掠れた声で、絞り出すように言った。
そこには、Dチューブで聴かせる爽やかなトーンは一単語も残っていない。
ただ、すべてを失った男の、剥き出しの告白だけがあった。
「……君たちは、……大丈夫だよ。……きっと」
「……え?」
ハルキは、コウタの手にある「古本屋のラベルが貼られた漫画」と、カナが握りしめている「安酒の袋」を、愛おしむように見つめた。
「……君たちは、……まだ、お互いのことを『本当に』好きでいられてるみたいだから。……そのまま、……絶対に、……売るなよ。放すなよ」
「……ハルキ、もう、行こう……。……これ以上、……喋ったら、……私……」
ルカがハルキの袖を掴み、逃げるように歩き出す。
仮面を被ることを忘れた二人の背中は、百万人のフォロワーに守られているはずなのに、冬の嵐に晒された小枝のように細く、頼りなかった。
「…………何だったの? 今の」
カナが呆然と呟く。
「……『売るな』って。……アドバイスなのかな?」
「……さあな。……でも、……あいつら」
コウタは、自分の手に残る、ずっしりとした紙の本の重みを感じた。
ルカとハルキが流していたのは、映画への感動の涙ではない。
自分たちが二度と手に入れられない「生臭い現実」への、絶望的なまでの葬送の涙だったことに、コウタだけが、微かな違和感として気づき始めていた。
「……行こう。……ストゼロ、温まっちまう」
「……そうね。……にひ。……やっぱり私たち、もっと仲良くしなきゃね。……ねえ、コウタ?」
カナは再び、コウタの腕に指を深く食い込ませた。
理想のカップルからの「お墨付き」を得たと思い込み、その歪な執着を、より一層深めながら。




