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第六十七話:『泡の如き夢、あるいは砂の城の崩壊』

 三階へと続くエスカレーターが、ゆっくりと上昇していく。

 その視界の先、三階フロアの一角には、色鮮やかな遊具が並ぶ「子供パーク」が広がっていた。

 そこには、世界中の光をかき集めたような、眩しすぎる日常があった。

 歓声を上げて走り回る子供たち。

 それを見守る親たちの、穏やかで退屈そうな横顔。

 カナはその光景を視界に入れた瞬間、コウタの腕を抱え込む手に、ぎりっ、と不自然な力を込めた。

 

(……ああ。……いいな)

 

 カナの瞳が、異様なほど大きく見開かれる。

 その網膜の裏側では、ありもしない「未来」が、劇薬のような鮮やかさで再生されていた。

 元気な三人の子供たちが、自分の裾を掴んで笑っている。

 妊娠を機に、あの忌まわしい銀色の缶を全て捨てた自分。

 毎日、泥だらけになって帰ってくる子供たちの世話に追われ、鏡を見る暇もないほどボロボロに疲れ果てた自分。

 そして、夕暮れ時。

 ハンターとして成功し、真っ当な稼ぎを得たコウタが、白いミニバンを運転して帰ってくる。

 駅裏の湿ったアパートではなく、庭付きの、日当たりのいい戸建てのマイホーム。

 玄関を開けたコウタを、子供たちと一緒に「おかえり」と迎える。

 そんな、どこまでも普通で、どこまでも美しい「女の幸せ」。

 

「……っ、おい、カナ。痛いんだけど。……離せよ」

 

 コウタが顔をしかめて腕を引き抜こうとする。

 その現実の感触が、カナの夢を粉々に砕いた。

 しがみつく指先が、コウタの服の袖を通り越し、肌に食い込むほど強く握り締められている。

 カナは無言のまま、ただじっと、目の前の「幸せな家族」の群れを凝視し続けていた。

 カナの瞳に浮かんでいた色彩が、急速に冷たく、濁った色へと塗り替えられていく。

 自分たちが今から向かうのは、家族の肖像など微塵もない、インクの匂いと孤独が詰まった本屋だ。

 そして帰る場所は、あの「二人きりの檻」でしかない。

 

「……カナ。……もう着くぞ。本屋、そこだから」

 

 コウタが低く声をかけると、カナは弾かれたように瞬きをし、ゆっくりと指の力を緩めた。

 

「……にひー。なんでもない。……行こ、コウタ。漫画、買わなきゃね」

 

 無理やり吊り上げられた口角が、小刻みに引き攣っている。

 エスカレーターを降り、三階の静寂へと足を踏み入れる。

 コウタは新刊棚から、お目当ての一冊を手に取った。

 実家の自室に積み上がった、未開封の束に加わるためだけの一冊。

 カナはその背表紙を冷めた目で見つめ、先ほどまで脳裏にあった「五人家族の食卓」を、自分自身への嫌がらせのように踏み潰した。

 

「ねえ、コウタ。あんたの実家の部屋、袋も出してない漫画がいっぱいあるじゃん。なんで読まないのに買うの? わけわかんない」

 

 その言葉は、自分の「叶わない夢」への苛立ちと、コウタを逃がさないという執念が混ざり合い、これまでになく鋭く放たれた。


 新刊棚へ向かうコウタの背中を追いかけていたカナの足が、ふと止まった。

 雑誌コーナーの一角。

 そこには、純白のドレスを纏ったモデルが微笑む、分厚い結婚情報誌が積み上げられていた。

 ピンク色で躍動する「幸せ」の文字。

 カナはその表紙を、まるで呪物に触れるのを恐れるような目で見つめた。

(……結婚)

 その二文字が、脳内で冷たく反響する。

 自分に、そんなことができるのだろうか。

 もし本当に「まとも」になろうとするなら、親にコウタを合わせなければならない。

 あの、自分を縛り付けていた親たちに。

 

(……嫌だ。……絶対、会わせたくない)

 

 あいつらから逃げて、ようやく手に入れたこの自由。

 もしコウタを会わせれば、またあの地獄が、この「二人だけの檻」を壊しに来る。

 それだけは耐えられない。

 このまま、誰にも邪魔されずに、コウタとずっと一緒にいたいだけなのに。

 先ほど見たパークの子供たちは、確かに可愛かった。

 欲しいものは、本当はいっぱいある。

 子供たち。

 ミニバン。

 日当たりのいい庭。

 なのに、自分は今、なぜあんな駅裏の、貨物列車が揺れるボロアパートにいるんだろう。

 理想と現実のあまりの乖離。

 守りたいものと、捨ててきたもの。

 その狭間で、カナの視界が急速に潤んでいく。

 

「……カナ? どうした、置いてくぞ」

 

 数歩先で立ち止まったコウタが、怪訝そうに振り返る。

 カナは慌てて目を瞬かせ、込み上げてきた涙を強引に押し戻した。

 結婚雑誌に伸ばしかけた指先を、誰にも見られないように握り締める。

 

「……にひー、なんでもなーい。……ほら、漫画、早く選んでよ」

 

 震える声を無理やり明るく作って、カナはコウタの隣へと駆け寄った。

 幸せの入り口にすら立てない自分を、自嘲の笑みで覆い隠しながら。







劇場の最後列。ルカとハルキ

エンドロールが流れ、観客が感動の余韻に浸りながら席を立つ中、二人の男女だけが石像のように動かずにいた。

完璧にセットされたハルキの髪は、スクリーンの青白い光に照らされ、どこか人工的な光沢を放っている。

 

「……ハルキ。今のシーン」

 

ルカの声は、配信で見せる「にゃんにゃん」とした甘えも、ビジネスで見せる冷徹な計算も、すべてが剥がれ落ちた、ただの掠れた女のものだった。

 

「……あの日、……私たちが、初めてカメラを回した日のこと、……思い出してた」

 

ハルキは答えず、手の中のスマホをぎゅっと握りしめた。

画面には、すでに「キャプテン・スマッシュ、神映画確定!」というハッシュタグが躍っている。

けれど、彼の視線はその数字を通り越し、自分の手の震えを見つめていた。

 

「……僕たちの『全部』、……売っちゃったな。ルカ」

 

「……え?」

 

「……初恋も。……初めての喧嘩も。……昨日、君の首筋に付けた『傷』の理由さえも。……全部、Dチューブのサーバーにアップロードして、……再生数に変えちまった」

 

ハルキがゆっくりとルカを振り返る。

その瞳には、バイザーを脱いだ『キャプテン・スマッシュ』と同じ、取り返しのつかない後悔が宿っていた。

 

「……やり直せないかな。……プライベート」

 

「……ハルキ、何を……」

 

「……怖いんだ。……今、こうして君に話しかけてる言葉さえ、……どこかに隠しカメラがあって、『実はドッキリでした!』ってテロップが出るんじゃないかって。……君の涙も、僕のこの震えも、……全部が嘘くさく聞こえて、……自分が信じられないんだ」

 

ハルキは顔を覆った。

「理不尽を粉砕する」ヒーローの物語を見た後に残ったのは、自分たちが「金と承認欲求」という理不尽に魂を売り渡してしまったという、逃れようのない事実だけだった。

 

「ごめん。ルカ、本当に、ごめん。……こんな関係に、……僕が、しちまった」

 

「……ハルキ……」

 

ルカの手が、ハルキの頬に伸びる。

けれど、指先が触れる直前で、彼女は躊躇った。

この「触れ合い」さえも、次の動画のサムネイルに使えるのではないか――そんな思考が、無意識に脳をかすめたからだ。

 

「私も、……同じよ」

 

ルカは手を下ろし、膝の上で拳を握った。

 

「……でも、……もう、戻れない。……百万人の『聖者』になっちゃったから。……私たちは、死ぬまで愛を演じ続けるしかないのよ」

 

劇場の照明が灯る。

二人は同時に、呼吸を整えた。

ハルキはMacBookを鞄にしまい、ルカは鏡も見ずに「完璧なルカ」の表情を張り付けた。

 

「……行こう。……次の撮影、スケジュール通りに」

 

「……ええ。……にゃあああん! 世界を、愛で再起動だぁああ!」

 

二人は並んで劇場を出る。

その背中は、どんなホラー映画よりも冷たく、そして美しく、完全に「死んで」いた。


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