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第六十六話:『甘い麻痺、あるいは夕暮れの答え合わせ』

 吹き抜けの窓から差し込む西日が、モール内の通路を柔らかなオレンジ色に染めていた。

 人混みの中を、カナはコウタの腕を離さずに歩く。

 先ほどまでの暗闇が嘘のように、彼女の足取りは軽く、声には隠しきれない愉悦が滲んでいた。


「ねえ、コウタ。さっきのトイレットペーパー、結局使わなかったの?」


「ああ。ずっとポケットに入れたままだったよ。つーか、なんであんな場所で渡したんだよ」


 コウタが怪訝そうに聞き返すと、カナは「にひー」と口角を吊り上げ、もっともらしい顔で説明を始めた。


「だって、ポップコーン食べたら手が汚れるでしょ? それに、泣ける映画だってわかってたから。トレイの上に剥き出しで置くわけにもいかないし、ポケットに隠して持っておいてほしかったんだもん」


 カナは小首を傾げ、いかにも「気遣い」の結果であるかのように言葉を並べた。

 コウタはそれを聞き、なるほどな、と喉を鳴らして得心した。


「あぁ、そういうことだったのか。確かにナプキンもなかったし、お前なりに準備してたわけだ。だから『映画終わるまで捨てないでね』って言ったんだな」


「そうだよ。納得してくれた?」


 カナは満足げに目を細め、コウタの腕に頬を擦り寄せた。

 コウタは少しだけ顔を顰め、シアターでの不可解な接触を思い出す。


「それにしてもさ。お前、涙舐めるのはやりすぎだろ。焦ったわ」


「いいじゃん! 減るもんじゃないし。私の自由でしょ」


「自由って……。涙くらい、自分の服の袖で拭うっつーの」


 コウタは苦笑しながら、自分の無頓着さを棚に上げて答えた。

 その言葉を聞いた瞬間、カナの胸の内で、言葉にできないほど黒くて甘い感情が跳ねる。

 

 自分の袖で拭うより、私があげた紙で、私の匂いで、ぐちゃぐちゃに拭いたくせに。

 

 そんな真実は、口にする必要すらない。

 彼が知らないまま、自分の「一部」を受け入れたという事実だけで、カナの心はパンパンに満たされていた。


「まあね。使わなかったなら、そのトイレットペーパー、もう捨てていいよ」


「ああ。ちょうどそこにゴミ箱あるし、ちょっと捨ててくる」


 コウタはポケットから、二時間の間ずっと温め続けていた「未使用の紙」を取り出し、通路脇のゴミ箱へと放り込んだ。

 それはただの、清潔で無機質な紙屑だ。

 戻ってきたコウタの背中を見つめながら、カナはこらえきれずに肩を震わせる。


「ふふ、ふふふ」


 彼が捨てたのは、何の価値もないブラフ。

 彼が本当に使ったものは、もう彼の体の一部として馴染み、あるいはカナの手で証拠隠滅された後だ。

 

 自分の支配が、これほどまでに美しく、完璧に成功した。

 カナは駆け寄ると、コウタの背中に思い切り抱きついた。


新しい服を求めて、二人はモールのレディースフロアを歩いていた。

 華やかな照明に照らされたマネキンたちが、流行の服を無機質に着こなしている。

 コウタは一軒のセレクトショップの前で足を止め、店頭のマネキンが着ているシンプルなカットソーを指差した。


「これとかいいんじゃねえか? お前、白とか似合いそうだし」


 コウタの提案に、カナは熱心にハンガーをめくるふりをしながら、ふと隣のメンズコーナーに視線を飛ばした。

 そこには、今コウタが指差したものと全く同じデザインの、少し大きなサイズのシャツが並んでいる。


「ねえ、コウタ。……これ、ペアルックにしない? あんたもこれ買ってよ。……お揃いがいい」


 カナは期待に満ちた瞳で、コウタの袖をぐいと引いた。

 コウタは一瞬、何を言われたのか理解できないという顔をして、それから露骨に嫌そうな声を出す。


「はあ!? ……嫌だよ。……いや、今どきそんなやついねえぞ。恥ずかしくて歩けねえわ」


「いいじゃん、別に誰も見てないって言ったでしょ。お揃いの服着て、二人で家で酒飲むの。……ダメ?」


 カナは不満げに頬を膨らませるが、コウタは一歩も引かなかった。

 彼は腕を組み、カナの持っているシャツを冷めた目で見つめる。


「あのな、カナ。今はシミラールックとかリンクコーデとか言うんだよ。色味とか素材感をなんとなく合わせるくらいが普通なの。お前が言ってるのは、ただのバカップルのペアルックだ。絶滅危惧種だぞ、そんなの」


「……なにそれ。意味わかんない」


「自意識が邪魔すんだよ。全身同じもん着て歩くなんて、痛すぎて見てらんねえわ。悪いけど、絶対なし。それだけは譲れねえ」


 コウタの「絶対なし!」という断固とした拒絶に、カナの瞳からスッと光が消えた。

 彼女は手に持っていたメンズのシャツを、クシャリと握りしめる。

 

 「痛い」

 「恥ずかしい」

 

 コウタが口にした、世間一般の「まとも」な感覚。

 それが、カナにとっては自分を拒絶する高い壁のように感じられた。

 

 彼女は無言でシャツをハンガーに戻すと、ぷいと顔を背けて、店の出口へと歩き出した。

 コウタの選んだ「似合うはずのブラウス」も、棚に置き去りにしたまま。


「……もういい。一階、行く」


 明らかにヘソを曲げた背中。

 カナはコウタを振り返ることもせず、エスカレーターの方へ早足で向かっていく。

 

 コウタは自分の言い過ぎた感に溜息をつきながらも、こればかりは仕方ないと自分に言い聞かせ、彼女の後を追った。



 カナは無言のまま、エスカレーターの手前で足を止めた。

 追いかけてきたコウタが声をかける前に、彼女はゆっくりと首を回して振り返る。

 その顔には、先ほどまでの不機嫌な曇り空など微塵も残っていなかった。


「……にひー、そういうことか。わかっちゃった」


 カナは、三日月のように目を細めてニヤニヤと笑い出した。

 勝利を確信したような、邪悪で甘い笑み。


「コウタの服、やっぱり私が着続けないといけないってことだよね。ペアルックは『痛い』けど、私がコウタのデカい服を着てるのは、別に外の人に見られないもんね」


「え、いや、それは……」


「ペアルックより、彼服だわ。……あはは! 私、服なんていらないもーん」


 カナは軽やかな足取りでコウタの懐に飛び込むと、彼の首に腕を回して耳元で囁いた。

 新しい服で「自分」を作る必要なんてない。

 コウタに拒絶されたことで、逆に「コウタのもの(服)を奪い続ける」という特権を再確認してしまったのだ。


(……しまった……!)

 

 コウタは内心で激しく後悔した。

 「まとも」な理屈でペアルックを論破したつもりが、一番厄介な、あの「スウェット生活」を永久に肯定させてしまったことに気づいたからだ。

 

「……なあ、カナ。もう服はいいから、三階の本屋寄っていいか。漫画の最新刊、チェックしたいんだ」

 

 このままではカナのペースに完全に飲み込まれる。

 コウタは話題を逸らすように、自分の中に残っている数少ない「個人的な習慣」を口にした。

 カナは一瞬、意外そうに目を丸くしたが、すぐにまたあのニヤニヤとした笑みを深めた。

 

「本屋? ふーん。いいよ、行こ行こ」

 

 カナは空のカゴをぶんぶんと振り回しながら、楽しげに上りのエスカレーターへと向かっていく。

 コウタは自分の失策を呪いながら、その後ろ姿を追うしかなかった。

 せっかく外へ連れ出し、カナに「自分自身の姿」を取り戻させようとした計画は、皮肉にも彼女をより深く、コウタという依存先へ引き戻す結果となった。

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