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第六十三話:『死骸の目覚め、あるいは三日後の沈没』
三日後の朝、作見町のアパートを包む空気は、もはや腐敗に近い澱みを見せていた。
カーテンは一度も開けられることなく、部屋の隅には空になったストロングゼロの缶と、日本酒の瓶、そして化石のように乾燥したカップラーメンの容器が山をなしている。
重い。
コウタは泥のような眠りから意識を引きずり出したが、指一本動かす気力が湧かなかった。
視界の端で、栗色の髪を乱した死骸のような塊が、自分の胸元に顔を埋めて動かずにいる。
「 ……おい、カナ。……起きろ。……もう三日だぞ…… 」
自分の声とは思えないほど、喉がひび割れて掠れていた。
カナは返事の代わりに、さらにコウタの体温を求めるように、細い腕で彼の腰を強く締め上げた。
彼女の肌は異常に熱く、それでいて気だるい湿り気を帯びている。
あの「激辛ラーメン」の夜から、二人の時間は狂った。
互いの存在を確認するためだけに、言葉の代わりに肌の熱をぶつけ合い、アルコールで脳を焼き、眠ってはまた際限なく求め合う。
度を越した密着の繰り返しで、カナの体には至る所に生々しい痕が浮き、コウタの背中も彼女の爪で無残に裂かれていた。
「 ……やだ。……動かないで。……あんた、……またどこか行くつもりでしょ…… 」
カナが顔を上げることなく、掠れた声で拒絶する。
その声には、かつての傲慢な響きは微塵もない。
ただ、自分を肯定した唯一の男という「錨」を失うことを恐れる、震えだけがあった。
「 ……行かねえよ。……こんな体で、どこに行けるってんだ。……お前が、……俺をここまでボロボロにしたんだろ 」
コウタは重い腕を上げ、カナの乱れた髪を掴んで無理やり顔を上げさせた。
三日間、まともに太陽を浴びていない彼女の顔は、ひどく青白く、目の周りには深い隈が落ちている。
けれど、その瞳だけは、高熱に浮かされたような異様な光を宿していた。
「 ……あんたが、……いけないのよ。……あんな、……変なこと言うから。……私、……おかしくなっちゃったじゃない…… 」
カナはそう言うと、力なくコウタの首筋に歯を立てた。
痛みはない。ただ、吸い付くような熱さだけが、三日間の狂騒の余韻として脳を痺れさせる。
コウタは、天井の染みを眺めた。
「好かれる人間じゃない」と突き放し、絶望させた。その結果、彼女は完全に「外の世界」を捨て、この狭い四畳半の、コウタという毒液の中に沈むことを選んだ。
勝利。
けれど、その代償は、二人ともまともに立ち上がることさえできないほどの、肉体的な磨耗だった。
カナは、コウタの胸板に耳を押し当て、不規則で重い心音を聴いていた。
普通の女なら「幸せ」と呼ぶであろうその感覚を、カナはもっと悍ましく、けれど替えの効かない**「完成」**として噛み締めていた。
( ……ああ。……私、やっと、あんたをここまで引き摺り下ろしたんだ )
あれほど鋭かったコウタの瞳が、今は光を失い、自分のせいで泥のように濁り、疲弊しきっている。
彼がボロボロになればなるほど、カナの胸の奥にある「飢え」は、一時的な、けれど極上の満腹感に満たされていった。
清潔な愛なんていらない。
こうして、二人して不健康に、誰にも見せられない姿で絡まり合っていることこそが、彼女にとっての「唯一の安全地帯」だった。
「 ……ねえ、コウタ。……もう、外なんていらないわよね。……ずっと、こうしていようよ 」
カナは、コウタの首筋に額を擦りつけた。
そこには、自分が刻んだ歯型や、執着の痕がいくつも散らばっている。
何も持っていなかった。
歌える曲も、帰る場所も、愛してくれる親も。
けれど今、自分の腕の中には、自分によって呼吸を乱し、自分なしでは立ち上がることもできない、一人の男が実在している。
「 ……ふふ。 」
三日ぶりに、小さく、掠れた笑い声が漏れた。
カナは満足げに目を閉じ、コウタの汗の匂いを深く吸い込む。
ようやく差し込んだ現実の気配。
日差しで栗色に光るその髪を、コウタの指先が所在なげに弄る。
カナはその指をそっと掴むと、頬を擦り寄せ、熱に浮かされたような声で囁いた。
「 ……ねえ、コウタ。……こんなに長く、ずっと一緒にいたの……はじめてだね 」
それは、剥き出しの「デレ」だった。
コウタは、カナのその無防備な声音に耐えかねたように視線を泳がせると、無理やり体を起こした。
「 ……ああ。……そうだな。……つーか、部屋、ひでえな。掃除するぞ 」
コウタは赤くなった耳を隠すように、ゴミを袋にまとめていく。
カナは布団の上に座り直し、しばらくの間、ただじっとその背中を見つめていた。
自分と三日間も溺れ、ボロボロになり、それでもこうして自分のために動く男。
熱い何かが、自分の内側から溢れ出し、肌を伝う。
カナはその「高まり」が頂点に達した瞬間、弾かれたように布団を飛び出した。
「 ……ありがと。コウタ 」
不意に背後から飛びかかられ、コウタの体が大きく揺らぐ。
カナはコウタの広い背中に肌を密着させ、その首筋に顔を埋めて、逃がさないように強く抱きついた。
「 ……おいっ、……お前、いい加減にしろ。……とりあえず服着ろよ! 」
コウタは掃除の手を止めて抗議するが、その声には照れが混ざっている。
カナはコウタの耳元で、勝ち誇ったように笑みを深めた。
「 ……なに。……恥ずかしがってるの? 」
カナはそう言いながら、自分の体温と「溢れ出た熱」を、コウタのシャツの背中に擦り付けるように密着させた。
今、自分が彼の一部になったという、目に見えない証を彼に刻み込む。
しばらくして、カナは満足したように体を離すと、床に落ちていたオーバーサイズのスウェットに袖を通した。
鏡を見ることなく、栗色の髪を指で整えながら、カナの口角は「ニタニタ」と、不気味なほど幸福そうに吊り上がっていた。




