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第六十二話:『深夜の激辛、あるいは湯冷めの沈黙』


ポットの湯が沸き、プラスチックの容器に注がれる。

三分後。蓋を開けた瞬間に立ち上ったのは、石鹸の香りを一瞬で蹂躙する、刺すような唐辛子の刺激臭だった。


「……っ、……ゴホッ、何これ、殺す気!? ……こんなの、食べられるわけ……」


「……食えよ。……俺が選んで、お前のために買ってきたんだ」


コウタは無防備に、けれど拒絶を許さないトーンで告げた。


カナは、真っ赤なスープに浸かった麺を、呪うように箸で持ち上げた。

一口。

舌が焼ける。痛みが走り、喉の奥が熱くなる。

風呂上がりで白く清潔だった肌が、一瞬で朱に染まり、額からじわりと汗が滲み出る。


「……っ、……はぁ……っ」


思わず漏れた吐息は、痛みのものか、それとも——。


「……辛っ、水、水……!」


カナは手を伸ばす。テーブルの上のペットボトルを掴み、喉に流し込もうとして——間違えた。

ストロングゼロだった。

アルコールが焼けた舌に染み込み、さらに火を注ぐ。


「……ぁ、……うそ、なんで……っ!」


涙が滲む。視界がチカチカと明滅する。内臓が——内臓の奥深くから、何かが熱を持って疼く。

それは、コウタに組み敷かれた時の、あの感覚にどこか似ていた。


「…ハッハッ…馬鹿だな、お前。水と酒の区別もつかないのか」


コウタはそう言って、ペットボトルを彼女の手から取り、正しい方を差し出した。

カナはそれを受け取り、文字通り「がぶ飲み」する。透明な水が顎を伝い、首筋を濡らし、風呂上がりに着たままのシャツの胸元を濡らしていく。


「……はぁ、……はぁ……っ。……あんたが、……こんなの買ってくるから……っ!」


カナは充血した目でコウタを睨む。その顔は、怒りと——何か別のもの——で真っ赤だった。

コウタはその様子を、じっくりと観察するように見つめながら、自分の分のカップ麺の蓋を開けた。


「うまいだろ、煮物とどっちがいい?」


カナはコウタを見て、悔しさと何かが混ざった感情で、もう一度自分の麺に手を伸ばした。


——その時だった。


カナは湯気の立つ麺を自分の口にかきこむ。

唇を赤く染め、舌を灼きながら、噛みしめる。そして——。


「……ん」


彼女はコウタの頬とくちを掴み、無理やりこちらを向かせた。そのまま、自分の唇を重ねる。


熱い。痛い。辛い。

麺が、スープが、彼女の唾液と混ざり合い、コウタの口内に流れ込んでくる。

辛い。痛い。でも——彼女の舌が、彼の舌に絡まるように、麺を押し込む。


「…………っ!」


コウタが驚いて身を引こうとすると、カナは逃がさないとばかりに、その首に腕を回した。全てコウタに吐き出した。


「……教えるんじゃなかったの?……これが、『汚い遊び』ってやつでしょ?」


カナの声は、酒と辛味で掠れていた。その目は、さっきまでの弱々しさを完全に失い、獲物を狙う獣のように爛々と輝いている。


「……あんたが『食え』って言うから、食った。……あんたが『教える』って言うから、教えてもらってるの。……でも、私だけが辛い思いするのは、不公平じゃない?」


そう言って、彼女は再び自分の口に麺を含み、コウタの唇を塞いだ。今度はより深く、より執拗に。麺が、スープが、二人の唾液が混ざり合い、顎を伝って滴り落ちる。シャツが汚れていく。風呂上がりの清潔さは、もうどこにもなかった。


「……っ、……ん……っ」


コウタの喉が鳴る。辛さに顔をしかめながらも、彼は彼女の異物を拒まなかった。むしろ——自分の手で、彼女の後頭部を引き寄せる。


「……辛ぇ……っ」


「……あんたが言ったんだよ。……『俺が何度でも汚す』って。……だったら、……私も、……あんたを汚しても、いいよね?」


コウタは答えない。代わりに、彼女の唇を自ら塞いだ。麺はもうない。ただ、辛さと熱だけが、二人の口の中を駆け巡る。


深夜、狭い四畳半。

テーブルの上では、カップ麺の容器が倒れ、赤いスープが染みを広げている。

その横で、二人は床に崩れ落ちるようにして、もつれ合っていた。


「……は、……はぁ……っ、……あつ……っ、……から……っ!」


カナはコウタの胸の上で、のたうち回る。辛さで痙攣する身体を、彼の腕が押さえつける。


「……やべぇいてぇ……っ」


コウタもまた、汗でびっしょりだった。彼の背中には、倒れたカップから溢れたスープが染み込み、シャツが肌に張り付いている。


「……よごれちゃったね、ニシッシッシ」


「……お前が、……口移しで食わせるから……だろ……っ!」


言い争いながらも、二人は離れられない。辛さで視界がチカチカし、呼吸が浅くなる。心臓が激しく脈打ち、全身の感覚が——痛みと熱だけになる。


「……ねえ、……コウタ……」


カナの声が、震えていた。辛さのせいか、それとも——別の何かのせいか。


「……なんだよ……」


「……これって、……あんたが『教えたかった』こと?……こんな、……辛くて、痛くて、……わけわかんないこと?」


コウタは、しばらく黙っていた。それから、低く笑った。


「……さあな。……でも、……お前は、嫌か?」


カナは答えない。代わりに、彼の胸に顔を埋めた。汗と、スープと、酒と——そして、この男の匂い。それが、今は何よりも確かな「何か」に思えた。


「……嫌なわけない」


消え入りそうな声だった。


コウタは、彼女の濡れた髪を優しくに撫でた。その手も、汗とスープでべとついている。


「……とりあえず氷舌におくか、辛すぎる」


「コウタ、やっぱあんたのこと好きだわ」


それだけ言って、彼は天井を見上げた。空になったカップ麺の容器が、倒れたまま、テーブルの端で揺れている。


辛すぎた。

 

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