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第六十一話:『空白の洗浄、あるいは夜の逃避行』


カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、埃の舞う室内を斜めに切り裂いていた。

コウタが壁にもたれて目を閉じたまま、重い寝息を立て始める。


布団の中で、カナは心臓の鼓動が耳の奥で爆音を立てているのを感じていた。


「……俺以外、誰がお前を好きになるんだ?」


その言葉が、暗闇の中で何度もリフレインする。

否定したかった。そんなわけない、私を求める奴なんていくらでもいる、と。

けれど、自分の醜悪さも、執着も、誰にも言えない汚れも、すべてを「ご褒美だ」と言って飲み込んだのは、世界中でこの男だけだった。


カナはたまらず布団を跳ね除け、這い出すように立ち上がった。


「……うるさいわよ。……汚い。……全部、洗い流してやるんだから」


カナは脱ぎ散らかしたシャツをひったくり、逃げるように風呂場へ駆け込んだ。

狭いユニットバス。蛇口を限界まで回し、冷たい水が熱を帯びた肌を打つ音で、コウタの声を掻き消そうとする。

けれど、いくら石鹸を泡立てても、肌に染み付いた「コウタに肯定された感覚」が落ちることはなかった。


一方で。

コウタは、カナが風呂に逃げ込んだ音を聞きながら、ゆっくりと重い瞼を持ち上げた。

酒のせいで思考は泥のように濁っている。けれど、今の言葉でカナの芯が折れた感触だけは、掌に鮮明に残っていた。


「……足りねえな。……全然、足りねえ」


コウタは千鳥足で立ち上がり、空の瓶を蹴り飛ばした。

このまま眠りにつくには、神経が昂りすぎている。カナを追い詰め、自分の色に染め上げていくこの感覚を、もっと鮮明に維持していたかった。


コウタは上着をひっ掴むと、風呂場から聞こえる水の音に背を向け、玄関の扉を開けた。


「……おい、カナ。……少し出てくる。……お前、風呂から出たら、ちゃんと水飲んどけよ」


返事はない。ただ、激しいシャワーの音だけが、カナの沈黙の代わりに響いている。

コウタは夜風の吹き荒れる通路へ出ると、近くのコンビニへと足を向けた。


アパートの外に出た瞬間、小松の冷気が、暴力的な鋭さでコウタの顔面を叩いた。

アルコールで膨張していた脳漿が、物理的な冷えによって急速に収縮していく。視界の端で揺れていた街灯の光が、今は刺すような白さで網膜に焼き付いた。


「……っ、……冷て。……でも、これくらいがちょうどいいか」


コウタは上着の襟を立て、誰もいない深夜の国道沿いを歩く。

さっきまで部屋に漂っていた、カナの汗と、安酒と、筑前煮の混ざり合った「地獄の熱気」が、この寒風によって削ぎ落とされていく。

頭が冴えるたびに、自分がカナに吐いた「呪い」が、いかに完璧な角度で彼女の喉元に刺さったかが思い出され、背筋に愉悦の震えが走った。


遠くに見える、コンビニの青白い看板。

コウタは無意識に口角を吊り上げ、自動ドアをくぐった。


店内は、驚くほど明るい。

コウタは軽い足取りで、カゴを手に取った。

まずは、自分用の日本酒。それから、さっきまで風呂で必死に「自分」を洗い流そうとしているであろうカナへの、とっておきのプレゼント。


棚からひったくったのは、不自然なほど赤いパッケージが目を引く激辛のカップラーメンが二つ。

さらに追加で、彼女の意識を飛ばすためのストロングゼロをカゴに叩き込む。


コウタはレジ袋を揺らし、再び極寒の外気へと踏み出した。夜風が、彼の口元に浮かんだ笑みを冷やしていく。


アパートへ続く道を歩きながら、コウタはぶつぶつと独り言を呟いていた。


「……筑前煮がどうした。……あんなん、お前には全然足りねえんだよ。……あんな薄味で、お前のその腐った舌が満足するわけねえだろ。……お前にはもっと、こう……なんつうか、刺激が……そう、刺激がいるんだよ」


呂律の回らない口調で、彼は自分でもよくわからない理屈を並べ立てる。

言いたいことは一つだけだった。今夜、自分がカナに「まとも」を教えたのは、彼女がそこに近づく姿を見たかったからじゃない。その「まとも」を、自分の手で——。


「あぁ、でもそんなん嫌だな」


誰もいない夜道で、コウタは声に出して言った。


階段を上り、玄関の扉を開ける。

部屋の中は、風呂場から漏れる湿った熱気と、石鹸の香りが微かに漂っていた。

カナが風呂から上がったばかりなのだろう。湿った銀髪をタオルで拭いながら、彼女は居間の真ん中で、コウタの不在に戸惑うような顔をして立ち尽くしていた。


「……あ。……おかえり。……どこ行ってたのよ、勝手に」


カナの声は、先ほどの呪いのような言葉の余韻で、まだどこか弱々しい。

コウタは無言でレジ袋を床に置くと、中身を一つずつ、儀式のように並べ始めた。


「……酒、足りなかっただろ。……お前のストゼロと、俺の日本酒。……それから、夜食だ」


ドン、と置かれたメガ激辛カップラーメン超特盛ギガMAX。

カナの瞳が、そのあまりにジャンクで、暴力的な「赤」に吸い寄せられる。


「……はあ!? カップラーメン!? ……あんた、さっきあんなの食わせといて……今度はこれ!? ……馬鹿じゃないの!?」


「……うるせえな。……さっきのはさっきだ。今は今だ。……お前、さっき風呂で何洗い流したのか知らねえけどよ」


コウタはよろめきながら、日本酒の蓋をひねった。


「……どうせ、俺の言ったこととか、俺の匂いとか、そういうのを洗い流そうとしてたんだろ。……でもな、そんなの無理なんだよ。……だって、お前が洗い流そうとしてるその肌に、その血に、もう俺の言葉は染み込んじまってるんだから」


カナは言葉を失い、自分の手のひらを見つめた。


「……それに、こんなもん食って、また汗かいて、また酒飲んで、また俺の言うこと聞いて。……そしたら、さっき風呂で流したものなんて、全部なかったことになるだろ」


コウタは自分の説教に酔いしれたように、くつくつと喉を鳴らした。


「……だから、食えよ。……お前がどれだけ洗い流しても、俺がまた塗りなおしてやるから」


そう言い切ると、彼は立ち上がり、ケトルのスイッチを入れた。

湯気が立ち上り、部屋にカップ麺のジャンクな匂いが広がっていく。


カナは、コウタが差し出した赤いカップを、抗うことなく受け取った。

フォークで麺をすくい、一口だけ——口に運ぶ。


「……っ、……からっ!」


顔をしかめて、彼女はコウタを睨みつけた。その目には、さっきまでの弱々しさはもうなかった。

代わりにあったのは——自分でもどうしていいかわからない、もどかしい熱だけだった。


「……あんたの言うことなんて、聞く必要ないんだからね……!」


そう言いながら、彼女はもう一口、麺を啜る。辛くて、痛くて、でも——止められなかった。


深夜、二人は小さなちゃぶ台を囲み、湯気の上がる激辛の麺を啜り続けた。

石鹸の香りが、一瞬でジャンクな香辛料の匂いに塗り潰されていく。


カナの額に、汗が滲む。

コウタはそれを見て、満足そうに酒を煽った。

——これでいい。こんなんでいいんだ。


酔ったらいろいほどうでもよかった。

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