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第六十話:『屈辱の咀嚼、あるいは冷えた夜の味』
作見町のアパートを囲う夜気は、湿り気を帯びて重い。
軽トラから降りたコウタは、助手席で俯いたままのカナを促すこともなく、コンビニの袋を下げて先に階段を上がった。背後で、軍靴がコンクリートを蹴る、苛立ちの混じった足音が続く。
鍵を開け、狭い玄関に足を踏み入れる。
コウタは電気をつける前に、まずカナを部屋の隅へ、獲物を檻に放り込むように追いやった。
「……ほら。とりあえず、これを飲むか」
袋から取り出したのは、カナの生命線であるストロングゼロのロング缶。コウタはそれを、彼女の膝元に転がすように置いた。
自分用には、少し高価な日本酒の四合瓶。それから、先ほど車内で「食べる」と言わせた、あの惣菜のパックを二つ、無造作に床に並べる。
カナは、まだ顔に熱を持たせたまま、ストゼロのプルタブを震える指で弾いた。
「……ふん。……別に、あんたに言われたから飲むわけじゃないわよ。……喉が、渇いただけ……」
そう強がるカナの前に、コウタは冷え切った筑前煮のパックを差し出した。
蓋を開けると、醤油と出汁の、あまりに「まともな家庭」を連想させる匂いが、安酒と埃にまみれた四畳半に場違いに広がる。
「いいから食えよ。お前、さっき自分で『食べる』って言っただろ。……嘘つきは、俺が一番嫌いな人種なんだわ」
コウタは自分の日本酒をコップに注ぎ、冷めた目でカナを観察する。
カナは、コウタの視線から逃げるようにパックの中の蓮根を箸で掴んだ。だが、その手はまだ、ダーツボードの前で「肯定」という名の毒を流し込まれた時の熱から、完全には回復していない。
「……味、薄いわね。……これ、おばあちゃんが食べるようなやつじゃない」
カナは、蓮根を奥歯でガリリと噛み砕いた。
その瞬間、彼女の脳内に、コウタの「清潔な生活」という幻影が侵入してくる。
この惣菜を選んだコウタの指先、それを「食べろ」と命じる声。
ただの冷えた野菜のはずなのに、それを咀嚼するたびに、自分の「狂気」が、コウタの「正論」に塗り潰されていくような屈辱感が喉を焼く。
「薄いか? ……俺にはちょうどいい。……お前が、いつも刺激の強い味ばかり摂りすぎなんだよ。……ほら、残さず食え。うまいだろ」
コウタは、酒を喉に流し込みながら、あえて「与えた」という言葉を強調した。
カナは喉を詰まらせそうになりながら、無理やり里芋を飲み込む。
美味しい、とは絶対に言わない。けれど、コウタに支配されたこの空間で、彼から与えられた食事を拒むこともできない。
カナは酒で無理やりそれを胃に流し込むと、潤んだ瞳でコウタを睨みつけた。
「……最低。本当に、あんたは最低よ。……食事くらい、もっと自由にさせなさいよ……」
その言葉は、もはや鋭いナイフではなく、飼い主に甘噛みする獣の、弱々しい抵抗にしか聞こえなかった。
コウタは、その様子を満足げにカメラのファインダーを通さずに眺め、ただ静かに口角を上げた。
コウタは空になった日本酒の瓶を床に置き、天井の染みをぼんやりと眺めた。
部屋には、カナが飲み干したストロングゼロのアルミ缶が、頼りなく転がっている。
さっきまでの屈辱的な空気は、アルコールの回りとともに、湿り気を帯びた停滞へと変わっていた。
コウタは立ち上がり、窓辺に歩いていった。湿った夜気が、わずかに開けられた窓の隙間から侵入し、カナの乱れた髪を揺らす。
「……なあ、カナ。今度、またカラオケにでも行くか」
コウタの唐突な言葉に、膝を抱えていたカナの肩がぴくりと震えた。
彼女は、乱れた銀髪の隙間から、疑り深い瞳でコウタを覗き込む。
「……はあ? あんた、まださっきのダーツのこと根に持ってるわけ? 今度は歌で私を馬鹿にするつもり?」
「……いや。ただ、さっきの『KC』を見てて思っただけだ。……あそこもそうだけどさ。この辺、もうカラオケなんてどこも潰れちまったな」
コウタは、窓の外の暗闇に視線を投げた。
かつて深夜まで若者の声が響いていた郊外のロードサイド。今はそのほとんどが、看板の文字を剥がされた廃墟か、魔獣の巣窟へと成り果てている。
「……そうね。……あそこも、あんたの部屋みたいに埃っぽくなってた。……もう、まともに歌える場所なんて、どこにもないわよ」
カナは自嘲気味に鼻で笑い、空の缶を指先で弾いた。
「……場所がなきゃ、俺たちの部屋で歌えばいいだろ。……お前がマイクを握るまで、一晩中俺の歌を聴かせてやるよ」
コウタの低い声が、狭い四畳半に反響した。
「……死ね。……あんたの歌なんて、一生聴かないわよ。……絶対に、……絶対に、マイクなんて握ってやらないんだから……」
カナは布団を頭から被り、壁の方を向いて丸まった。
暗い部屋の中、コウタは座ったまま、自分用に買った酒の残りをゆっくりと喉へ流し込んだ。
アルコールが脳を揺らす。普段は胸の奥に沈めている言葉が、泥のように濁って溢れ出す。
「……なあ、カナ。お前、いつもそうやってツンツンしてるけどさ」
布団の塊が、わずかに静止する。
「お前、みんなに好かれるような……そういう、きれいなだけの人間じゃねえよな。……でもさ、お前なりにある程度、そういうのに……なろうとしてるのか? ……それとも、俺だけいればいいって思ってる?」
コウタは低く笑い、空になったコップを畳に置いた。
「……でも、俺だってさ。本当は『みんな』の中の一人でしかないかもしれないぜ。……そんなお前が、誰からも好かれないよう振る舞ってて……俺以外、誰がお前を好きになるんだ? わかるか? お前、めちゃくちゃなこと俺に言ってないか……?」
問いかけておきながら、コウタは自分の言葉の重みに耐えかねたように、ふっと力を抜いた。
カナからの返事はない。ただ、暗闇の中で彼女の呼吸が、微かに、激しく乱れる音だけが聞こえる。
(——俺以外、誰がお前を好きになるんだ)
その言葉は、救済の形をした、究極の呪いだった。
「……あー。……ごめん。言いたいこと、まとまんねえな。……酒、飲みすぎたかも……」
コウタはそのまま、座った姿勢で壁にもたれかかり、重たい瞼を閉じた。
静まり返った部屋。
布団の中のカナは、心臓を直接素手で掴まれたような、鋭い痛みに震えていた。
それはさっきまでの「屈辱」とは、まるで違う種類の痛みだった。自分のために紡がれた言葉に、これほどまでに心臓が締め付けられたことが、今まであっただろうか。
彼女は布団の中で、自分の指先を、そっとコウタの与えた「まともな食事」のパックに触れさせた。冷え切った里芋の残り。
——こいつは、こんな不器用なやり方でしか、ものを伝えられないんだ。
そのことが、なぜだか、とても惜しいような、もどかしいような気持ちになった。




