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第五十九話:『分校町の熱帯、狂った射幸心』


コウタはそれを見逃さなかった。彼は淡々と、言葉を重ねる。


「なあ、あのさ。好かれる態度って、あるんだわ。普通はな」


カナの肩が、びくりと跳ねた。

口を開こうとした。何か言い返さなければ。この男の言葉を、いつものように毒に変えて、吐き出さなければ。

——でも、何も出てこなかった。


「……はあ? 何よ、藪から棒に。あんた、さっきの余計な一言の反省でもしてるわけ?」


声は出た。でも、それはさっきまでの「支配者」のものではなかった。彼女の指はダーツボードの縁に爪を立てていた。自分の「支配」という物語が、今、この男の言葉で音を立てて崩れていくのを、彼女ははっきりと感じていた。


「逆だよ。……お前、そうやってすぐにキレるだろ。俺が好意的に接しようとしても、全部毒に変えて吐き出す。……そんなことばかりしてるとさ、普通は人間、離れちまうんだぞ」


コウタの声は、怒りよりも「呆れ」と「観察」に近い温度だった。その淡々とした響きが、逆にカナの余裕を奪っていく。


「離れたければ離れればいいじゃない! あんたなんて、どうせ私のこと汚いって思ってるんでしょ!? 私の汗も、私の気持ちも!」


カナは叫びながら、自分の汗が染み込んだコウタのシャツの袖口を、無意識に掴んでいた。汚しているつもりが、掴んでいる。拒絶しているつもりが、離せない。


コウタはその矛盾を見逃さなかった。彼は一歩、さらに踏み込む。


「だから、ご褒美だって言っただろ。……お前、本当は恥ずかしいのか? それとも、まともに愛されるのが怖いのか?」


カナの呼吸が、一瞬で止まった。

彼女の口が、何かを言いかけようとして——そのまま、固まった。

言いたい言葉はたくさんあった。「ふざけるな」「そんなわけない」「愛なんて言葉で私を括るな」——でも、そのどれもが、さっきまで自分が言っていた台詞の焼き直しにしかならない。

自分の「毒」は、もうこの男には効かない。それを、彼女ははっきりと理解していた。


彼女はただ、コウタのシャツの袖口を握りしめたまま、小さく首を振った。

それは「違う」という否定なのか、「わからない」という告白なのか——彼女自身にも、もうわからなかった。


コウタはその様子を、無言で見つめていた。そして、キーを回してディーゼルエンジンを始動させた。無骨な振動が足元から伝わり、二人の間の重苦しい沈黙を、機械的な騒音が塗りつぶしていく。


「……腹減ったな。惣菜、カナの分もあるから。食べる?」


コウタは冷たく突き放すように言い、ギヤをバックに入れた。

助手席のカナは、膝の上で拳を強く握りしめた。その拳は、震えていた。

——悔しい。

自分の「支配」は、こんなにもあっけなく崩れた。

自分の「毒」は、こんなにも簡単に「ご褒美」に変換された。

自分がこの男を「飼いならしている」つもりでいたのに、実際は——ずっと、この男に「飼いならされていた」。


それでも、彼女はシャツの袖口から指を離せなかった。


「……食べるわよ、馬鹿」


消え入りそうな声だった。でも、その声には、さっきまでの「支配者」の傲慢さはもうなかった。

代わりにあったのは、支配を手放した者の、かすかな——それでも確かな——居場所の確認だった。




しばらくの間、車内にはエンジンの唸りと、カナが惣菜のパックを開けるかすかな音だけが響いていた。


カナは唐揚げを一つ摘まみ、口に入れた。冷めかけている。でも、それがかえって彼女の熱くなった顔にはちょうどよかった。


咀嚼しながら、彼女は横目でコウタを盗み見る。ハンドルを握る横顔。信号待ちでウインカーを操作する指。いつも通りだ。淡々と、無機質に、機械を操るように車を走らせる。


——さっきまでの、あのコウタじゃない。


カナは唐揚げをもう一つ摘まみながら、口を開いた。


「ねえ」


「ん」


「あんた、さっき。……なんか、いつものあんたじゃなかったわね」


コウタは視線を前に向けたまま、特に反応しない。


「どういうことよ、あれ。急に優しくなったと思ったら、いきなり『好かれる態度』とか言い出すし。あんた、私のことからかって楽しいの?」


「からかってないよ」


「じゃあ何」


「……事実を言っただけだ」


コウタの声は、相変わらず平板だった。でも、カナは聞き逃さなかった。彼の指が、ほんの一瞬だけハンドルを握り直したのを。


「……ふうん。そう」


カナはもう一つ唐揚げを口に放り込み、わざと大きな音を立てて咀嚼した。自分の鼓動が、やけに耳に響く。


「でもさ」


「ん」


「あんたが『好かれる態度』なんて言うの、なんかムカつく。だって、あんた自身はどうなのよ。あんたのその『好かれる態度』ってやつ、私から見たら全然好かれてないわよ。無口だし、無愛想だし、私の汗が『ご褒美』とか言うし。変態」


コウタが、ちらりと彼女を見た。目が合う。カナは反射的に視線をそらした。


「……別に、好かれようとしてないから」


「は?」


「お前に好かれるために、俺は『好かれる態度』を取ってるわけじゃない」


信号が赤に変わる。車が止まり、エンジンのアイドリング音だけが重く響く。


「じゃあ、何のために」


「……お前に、『好かれる』ってことが、どういうことか知ってほしかっただけだ」


カナの手が、唐揚げを摘まむのを止めた。


「俺たち、ずっと『汚し合う』ことで繋がってきた。でも、それだけだと、お前はいつか疲れるだろ」


「……はあ? 何言って……」


「さっき、逃げたじゃん。俺に『汚せ』って言われて、お前、逃げた」


カナは言葉を失った。


「お前が『汚し合う』関係に疲れて、逃げたくなった時——その時に、別の繋がり方もあったって思えるように。それだけだよ」


信号が青に変わる。コウタはアクセルをそっと踏み込んだ。


カナは、摘まんだままの唐揚げを、ぼんやりと見つめていた。


「……余計なお世話よ」


やっと絞り出した声は、思ったよりもずっと小さかった。


「そうかもな」


コウタはそう言って、ナビを操作した。行き先は、もう決まっている。


カナは冷めた唐揚げを口に入れた。さっきまで感じていた悔しさが、じわじわと別のものに変わっていく。それは——なんだか、とてもくすぐったいような、もどかしいような、初めての感覚だった。


「……あんた、本当に、変態」


「お前ほどじゃないよ」


カナは、思わず吹き出しそうになるのを必死にこらえた。窓の外では、加賀の街灯が途切れなく流れている。

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