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第五十八話:『蹂躙のライブ:開演(共鳴のハコ)』

 小松から国道八号線を南下し、加賀市分校町へ。

 暗闇の中に横たわる巨大な長方形の影、かつて『KC』と呼ばれたその場所は、重い湿気を吸い込み、錆びた外壁をさらけ出していた。

 ここは二階建てではない。見渡す限りの面積を誇る、巨大な「平屋」の廃墟だ。

 かつてはレンタルDVD、本、雑貨、そして一番奥のカラオケエリアまでが、この広大なワンフロアに詰め込まれていた。天井は剥き出しの鉄骨が渡され、不自然なほど高い。かつてはそこを数千、数万の「娯楽の音」が反響し、満たしていた。


「相変わらず、無駄に広いわね。ねえ、コウタ。あんた前ここに来た時、私のこと完全に無視して一人で三時間歌い続けたわよね」


 カナが、剥がれかけた「カラオケ受付」のカウンターを軍靴で蹴った。

 あの時、カナは結局一曲も歌わなかった。歌える曲なんて一つも知らなかったし、何より、コウタの前で声を張り上げるなんて恥ずかしくて死んでも嫌だった。ただ、マイクを握る彼の横顔を、隅っこのソファでポテトを齧りながら、高い天井へ吸い込まれていく彼の歌声を眺めていただけだ。


「悪かったな。お前が頑なにマイクを握らないから、時間が余ったんだろ」


 コウタは視線を合わせず、カラオケの集中管理システムに私物の端末を直結させた。


「フン、歌える曲なんてないもの。でも、今日はあんたの歌、聴いてあげないから」


 カナが、アイアン・パイン社製の**「ノーマルソード」**を無造作に引き抜いた。どこにでも売っている量産品の長剣。けれど今の彼女にとっては、どんな名剣よりも手に馴染む「使い捨ての体罰」だ。

 冷たい鉄骨の走る高い天井を睨む。歌声では応えられないけれど、この鋼が肉を叩き切る音なら、今の私なら、あんたの「音」に合わせられる。


「――はーい、皆様。こんばんは。かつて配信の王が生まれたこの聖地で、今日は最高の地獄を見せてあげるわ」


 配信開始。カメラが回った瞬間、二人の間に漂っていた「私的な記憶」は霧散し、画面越しには冷徹な「ビジネス不仲」が完成する。


「仕事だ、カナ。余計な喋りはいいから、さっさと始めろ」



「言われなくてもやるわよ、クソカメラ。ここの埃臭さ、あんたの部屋の匂いにそっくりで反吐が出るわ」



「そうか。なら、その反吐が出る空間を掃除してこい」


 コウタは淡々とドローンを操作し、ガランとした高い天井付近まで一気に上昇させた。

 ハッキングしたスピーカーから、かつて彼が歌っていたあの曲のインストが、地響きのような重低音で流れ出す。

 音に呼応するように、奥の棚の山が崩れた。

 磁気テープを蜘蛛の糸のように張り巡らせた魔獣『カセット・ストーカー』が、梁の上で蠢く。

 カナが、レンタル棚の間を閃光のように駆けた。異能『飢餓の獣』が、彼女の焦燥を燃料にして肉体を加速させる。

 長剣が、行く手を阻む錆びた棚をなぎ倒し、磁気テープの触手を豪快に叩き切る。

 歌えない代わりに、彼女は鋼が唸る音をメロディに変え、骨を砕く衝撃をリズムに変える。

 ドローンは高い天井から俯瞰し、かつてカラオケボックスの隅で縮こまっていた少女が、血飛沫の中で誰よりも雄弁に「自分」を叫んでいる姿を、執拗に切り取っていく。


「見てなさいよ、コウタ。私、これなら! あんたに、見せてあげられるから!」


 爆音の中、インカム越しにコウタの微かな鼻歌が聞こえる。

 カナはその「音」に導かれるように、さらに深く、残酷に、魔獣を解体していく。


 コウタは無言で軽トラから冷えた缶を取り出し、彼女へ放り投げる。

 そして自分は、懐中電灯の光をフロアの隅へと向けた。そこには、かつてのゲームコーナーの残骸。奇跡的に破壊を免れた、旧式のダーツボードが壁に残っていた。


「少し、遊んでいくか。まだ身体が熱いんだろ」


 コウタが、カウンターの奥から埃を被ったダーツの矢を見つけ出す。

 カナは缶を煽り、喉を焼くアルコールに目を細めながら、ふらりと立ち上がった。


「……いいわよ。でも、普通に投げても面白くないわよね」


 カナはコウタの隣に並んだ。至近距離。

 彼女の身体から立ち上る熱気が、コウタの「清潔」な空気を侵食していく。カナはわざと、自分の汗ばんだ首筋をコウタの腕に擦り付けた。


「ねえ、コウタ。私が一投外すごとに、あんたのその『綺麗なシャツ』、一枚ずつ汚してあげてもいい? 私の、この汗で」


 カナはわざと、熱を帯びた自分の首筋をコウタの腕にゆっくりと擦りつけた。湿った銀髪が彼のシャツにじわりと染みを作る。

 コウタは眉間に皺を寄せ、自分の腕に押し付けられた熱を、汚物でも見るような目で見下ろした。


「……おい。それ、野球拳より酷いだろ。ルールが破綻してんだよ、お前」


 心底呆れたようなコウタの声に、カナは勝ち誇ったように口角を上げた。


「あら、嫌なら勝てばいいじゃない。それとも何、私の毒が移るのがそんなに怖いの?」


 カナはコウタの指から奪い取るように矢を掴むと、ふらつく足取りで投擲ラインに立った。


「……勘違いすんな。怖がってねえよ。むしろ、こんな美人の汗ならご褒美だろ。普通は金払ってでも欲しがるやつだぞ、これ」


 カナの動きが、凍りついたように止まった。

 勝利を確信していた口角が引き攣り、代わりに顔面が、酒のせいだけではない熱で一気に沸騰する。


「なっ……! あんた、何、言って……っ!?」


 カナの反応は劇的だった。さっきまで「侵食してやる」と勝ち誇っていた瞳が激しく泳ぎ、耳たぶまでが真っ赤に染まっていく。

 コウタはそれを見逃さなかった。彼女が一番言われたくない言葉――「自分の女としての価値を肯定されること」が、今の彼女にとって最大の毒になることを。


「事実を言っただけだ。ほら、早く投げろよ。俺は別に、汚されても構わないから」


 コウタは平然とした顔で、カナの手の中にあった矢の角度を直してやった。指先が彼女の熱い掌に触れるが、コウタは眉一つ動かさない。

 内心では、完全な手応えを感じていた。

 (――よし。かかったな)

 カナが「暴力や汚れ」を武器に攻めてくるなら、自分はそれを「価値あるもの」として無機質に全肯定してやればいい。そうすれば、彼女は自分の武器が何だったのか分からなくなり、勝手に自滅する。

 コウタにとって、これは一種の「精神的な調教」に近い作業だった。


「……死ね。コウタ。本当に、一回死になさいよ……っ!」


 カナは絞り出すような声で呪詛を吐き、自暴自棄に矢を放った。

 激しい動揺に支配された投擲。矢はボードに掠りもせず、高い天井の闇へと虚しく消え、コンクリートの床に乾いた音を立てて落ちた。


「外れ。一投目だな。ほら、約束通り汚せよ。シャツのどこがいい? 肩か? それとも胸元か?」


 コウタは一歩、カナの方へ歩み寄った。無表情のまま、無防備にその身を差し出す。

 だが、カナは後退った。顔を真っ赤にしたまま、震える手で二の腕を抱え込み、必死にコウタを睨みつける。


「…………できないわよ、そんなの! 馬鹿! 変態! 死ね!」


 さっきまでの傲慢な捕食者はどこへ行ったのか。

 そこにいるのは、自分の仕掛けた罠に足を挟まれ、顔を真っ赤にして泣きそうな顔をしている、ただの不器用な女だった。

 コウタはそれを見て、心の中で小さく、冷徹な勝利の笑みを浮かべた。

 (昔なら殺しあいだな。こんなこと言ったら)

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