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第五十七話:『揺れる車内、逃げ場のない独白』

 アイアン・パイン製『ダンジョンキャリーMK-II』の狭い運転席。

 小松空港へと続く直線道路。ディーゼルエンジンの無骨な振動が足元から伝わってくる。ダッシュボードに固定されたドローンの予備バッテリーが、加速のたびにカタカタと乾いた音を立てた。

 ハンドルを握るコウタの横で、助手席のカナは深くシートに背を預け、窓の外を流れる灰色の空を眺めていた。手元にはコンビニで買ったばかりのストロングゼロ。プルタブを開ける鋭い音が、密閉された車内に響く。


「ねえ、コウタ。さっきの話の続きなんだけど」


 カナが不意に口を開いた。酒の匂いが、エアコンの風に乗ってコウタの鼻を突く。


「さっきの話って、アパートでの饅頭の話か。まだやるのかよ、あれ」


 コウタは前方の信号を見つめたまま、心底嫌そうに聞き返した。朝から自分の唾液と混ぜた饅頭を食わせようとしてきた女の顔を、思い出すだけで胃が重くなる。


「そうよ。よく考えたらさ、子供ってなんで鼻くそをほじって食べちゃうんだろうね。大人になると表向きはしなくなるじゃない。汚いって学習するから? それとも羞恥心?」


 カナは一口、喉を鳴らして酒を流し込んだ。窓の向こう、小松基地から飛び立った戦闘機の爆音が、軽トラの薄い装甲を震わせる。


「そりゃそうだろう。不衛生だし、何より見た目が最悪だ。お前のさっきの饅頭も同じだよ」



「あまいわね。でもさ、信号待ちでおっさんが必死に鼻をほじってるの、たまに見かけるじゃない。あれ、絶対無意識に食おうとしてるわよ。本能には勝てないのよ」


 カナは空になった缶を足元に転がし、コウタの方へゆっくりと身を乗り出した。シートベルトが軋み、酒と火薬の混ざった彼女の体温が至近距離で伝わってくる。


「一説によるとさ、あえて雑菌を体に入れることで免疫をつけてるらしいわよ。だから、さっきの饅頭だって同じこと。私があんたに私の『免疫力』を分けてあげてたのよ。私の毒も、執着も、唾液も。全部あんたの内側に戻して、私なしじゃ生けない体に作り替えてあげてるの。ねえ、これって合理的だと思わない?」


 カナの指先が、コウタの頬をねっとりと撫でる。コウタは前を向いたまま、低く冷めた声で告げた。


「お前、もし俺に鼻くそまで食わせようとしたら、その瞬間に別れるからな。本気だぞ」


 コウタは前を向いたまま、そう言い切った。けれど、その喉の奥には、今朝の光景が蘇っていた。

 カナが饅頭を舌で咀嚼する様子を、コウタは確かに「撮りたい」と思った。あの唾液に濡れた饅頭が、自分の口に押し込まれる瞬間を、記録したかった。

 けれど、撮ったら最後だ。自分がカナの「毒」に犯されていることを、自分自身で証明してしまう。

 だから、拒絶する。カナの汚れを記録するためには、自分は「清潔」でなければならない。カメラは、汚れた被写体を映すためにある。カメラ自体が汚れたら、もう何も撮れない。

 コウタは、ハンドルを握り直した。


「その屁理屈、自分にも適応しろよ。昨日だって結局風呂に入らないで寝ただろ、お前。綺麗好きの俺の身にもなれ。アパート中、酒と魔獣の返り血の匂いで充満してんだよ」


 コウタの冷ややかな指摘に、カナは鼻で笑って窓の外を見た。


「へえ。お前、自分を汚いって自覚、ちょっぴりあったんだな」


 コウタが皮肉げに追撃すると、カナは酒で赤らんだ顔をこちらに向け、不敵に口角を上げた。


「はあ? 勘違いしないで。私は綺麗とか汚いとか、そんな安い基準で生きてないわよ。私は私なの。あんたの清潔も、世間の正しさも、私の前じゃ全部無意味。私が風呂に入らないのも、あんたにドロドロの饅頭食わせるのも、全部含めて『私』という正解なのよ」


 カナはそう言い切ると、今度はコウタの耳元に唇を寄せた。


「ねえ、コウタ。人間なんてさ、みんな綺麗っていう表面の皮一枚で覆われてるだけじゃない? でも、その下の本能って人それぞれなのよ。あんたの本当の本能は、その綺麗な皮を私にズタズタにされることを求めてるの。私の毒に犯されて、私を欲しがってるのよ」


 カナは、コウタの首筋に指を這わせた。

 汗。

 三年前、二人が初めて殺し合った夜、コウタの首筋にはカナの唾液が付着していた。今、カナの指先に触れるのは、コウタの汗だ。


「ねえ、コウタ。次は汗ね。あんたの汗を、私が舐めてあげる。そしたら、あんたの清潔も、私の内側に入るのよ」


 カナは、そう囁いて指を離した。コウタは、前を向いたまま何も答えない。けれど、その喉仏が、小さく上下するのをカナは見逃さなかった。

 カナは満足げに笑い、配信用のドローンのモニターを指先で強く弾いた。


「ほら、もうすぐ現場よ。カメラ回しなさいよ、コウタ。清潔なあんたを、今日も私の毒で塗り潰してあげるわ」


 ドローンのチェックを知らせる電子音が鳴る。配信開始まで、あと数分。

 カナは瞬時に「ビジネス不仲」の冷たい表情を作り、配信用のレンズを睨みつけた。

 コウタはドローンのモニターを見つめながら、小さく息を吐いた。

 このカメラが撮るのは、魔獣ではない。カナだ。

 血塗れで笑うカナ。汚れたまま眠るカナ。饅頭を咀嚼するカナ。

 配信では「ビジネス不仲」を演じるカナを、コウタは記録する。けれど、本当に記録したいのは、配信が終わった後の、酒を飲むカナだ。

 

 コウタはハンドルを握り直した。

 カメラは、汚れた被写体を映すためにある。

 そして、自分は「清潔」でなければならない。そうでなければ、カナを撮り続けることができない。

 正気でいられない。


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