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第五十六話:『記憶の侵食、あるいは錆びた舞台の終幕』


カビ臭い空気と血の味が喉の奥に蘇る。カナは隣を歩くコウタの横顔を盗み見た。今の彼は、あの頃のように鼻を折られ血を流して笑う無鉄砲さはない。けれど、その瞳の奥に潜む「狂気」の純度は、時を経てより深く、鋭く研ぎ澄まされている。

二人は今、先ほどまで自分たちを嘲笑っていた管理官がいるはずのロビーを、通路の影から見下ろしていた。

 

「そういや、ここ。……スピーカー、まだ生きてるな」



コウタが事も無げに呟き、手元の端末を操作する。

カナは、その淀みのない指の動きを見つめながら、「饅頭を咀嚼する舌」を思い出していた。今、コウタは「汚れた管理官」を記録することに、同じ熱量で没頭している。

管理官が「現場のミスを自分がカバーした」と局長に嘘の報告を続けていた、あの忌々しい通話。コウタはそれを切るどころか、ギルド全体の「パブリック・アナウンス」へとバイパスを繋ぎ変えていた。

静まり返った深夜のギルドに、管理官の卑屈で傲慢な声が、爆音で鳴り響く。

『ええ、ええ局長! あの二人は所詮、使い捨ての歯車ですから。私の功績として処理しておけば、取引先も納得します。……はい、ゴミ掃除は私の得意分野でして』



ロビーの向こうで、管理官が顔を真っ青にして飛び上がるのが見えた。慌てて端末を叩くが、コウタが裏で構築した「ストリーム・ゲート」社製の暗号ロックは、素人の操作ではビクともしない。

血塗れで笑い、互いの首を絞め合っていた二人を見た瞬間、彼は「これは人間じゃない」と直感した。だから、あの時書類の山に埋めて「なかったこと」にしたのだ。けれど、埋めたはずの異物は腐らず、発酵し、今、彼の人生そのものを食い破って這い出てきた。

 

「……ひ、……ひぃっ、消せ! 誰だ、誰がやってるんだ!」



醜く喚き散らす自分の声が、ギルド中に響く。それは「d-tube」の同時ライブ配信を通じて、小松市の全ハンター、果てはスポンサー企業にまでリアルタイムで拡散されていた。

管理官は、何を「埋めて」きたのかを、今更ながらに理解した。彼が埋めたのは、二人の存在ではない。自分が「人間である」という、最後の嘘だった。

 

「……ねえ、コウタ。あんた前から思ってたけどさ。……あんたの性格、一見大人しそうに見えて、中身はとっくに狂ってるわよね。……けっこう、あたしとあんた変わらないわよね」



カナが、コウタの耳元で低く囁く。喉の奥が、あの時の饅頭を飲み込んだ時のように熱い。コウタが求めているのは正義ではない。「汚れたもの」の完璧な記録だ。

 

「……? 何言ってんだ、お前」



コウタは視線を端末に落としたまま、心底不思議そうに問い返す。社会的に一人を確実に、再起不能まで抹殺した自覚が、彼には微塵もない。

 

「……にひっ。……本当、最低。……最高に最低よ、あんた」



カナは、自分の人生を泥濘に引きずり込んだこの男の腕を、今まで以上に強く抱きしめた。

 

「ずっと好きってなんだよ。人間の感情なんてすぐにかわるよ」



コウタは視線を端末に落としたまま、感情の起伏を一切見せずに言い放った。

一人を社会的に抹殺した直後の、あまりにも無機質なその声音。

カナは抱きついていた腕を少しだけ緩め、縋るような瞳で彼を見上げた。

「コウタ、そんなこといわないでよ。私のこと嫌いなの?」



「好きだよ。でも、お前の熱も思いもいつか色褪せるもんだよ。形あるものが壊れるのと同じで、ただの自然現象だろ」



「冷めすぎでしょあんた。……にひー。せっかくいい雰囲気だったのに、台無し」



カナは呆れたように鼻を鳴らし、わざとらしく彼から体を離そうとした。

だが、コウタは端末をポケットにねじ込むと、立ち止まって夜の空を見上げた。

小松空港へ向かう戦闘機のエンジン音が、遠くで低く唸っている。

「Dtubeだから、俺、お前とやって……。……今のこの瞬間を、残したいんだけどな」



「くさすぎでしょいきなり。……ふふ、まあ別にいいけど。……あんたのそういう、たまに出るポエマーなところ、本当に最低で最高よ」



カナは毒づきながらも、再び彼の腕に自分の体を預けた。

コウタが求めているのは「不変の愛」という幻想ではない。

今この瞬間に、二人が確かに「狂っている」という事実を記録し、保存すること。

それが彼なりの、祈りにも似た執着の形だった。

 

「……いいか、カナ。変わらなきゃダメなんだよ。お前のその熱がずっと今のままだったら、俺は一生、あのドロドロまんじゅうを食わされ続けることになるんだぞ。そんなの正気じゃいられない」



コウタの言葉は、切実だった。

愛情が不変であるということは、あの狂気じみた「咀嚼」や「執着」もまた、永遠に更新され続けるということだ。

 

「それに、変わるったって……。……お前が、もう少しだけまともな愛情表現を覚える方向に、いいふうに変わるかもしれないだろ」



「そんなに都合良くいったことないわよ。……。……でも、あんたがそう言うなら、少しだけ信じてあげてもいいわ」



カナはふっと鼻先で彼の肩を小突き、喉の奥を鳴らして笑った。

「ていうか、あれは最高の愛情表現よ。彼氏なら泣いて喜んでくえ」



「頼むから、少しは色褪せてくれ。……じゃないと、俺のメンタルがもたない」

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