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第五十五話:『廃液の誓い、あるいは剥き出しの二人』
カナは床にへたり込み、肺が焼けるような喘鳴を繰り返していた。自慢の装備は無惨に引き裂かれ、露出した肩からは熱を持った脂汗が滴っている。頬を走る浅い切り傷からは、今も鮮血がじわりと滲み、彼女の白い肌を汚していた。
だが、その瞳だけは死んでいなかった。折れた爪が食い込むほど強くナイフの柄を握り締め、目の前に座り込む「不快な男」を、呪い殺さんばかりの勢いで睨みつけている。
対するコウタも、立っているのが不思議なほどボロボロだった。機能性を重視したはずの上着はボロ切れのように引き裂かれ、口角を拭った手の甲には、自分のものか相手のものかも判別できない血がべっとりと付着している。
彼は、まるで糸の切れた人形のように、重いカメラバッグを傍らに放り出し、壁に背を預けてずるずると座り込んだ。
「……はは、……ッ、お前こそ。……女の力じゃねえだろ、それ。……本気で、殺しに来やがって」
「……もうなにも関係ねぇ。むかつく。てめぇのほうこそぶっ殺す」
その言葉を導火線に、静寂は再び爆ぜた。
カナが獣のような速さでコンクリートを蹴り、残った右手のナイフをコウタの眼球目掛けて突き出す。対するコウタは座り込んだ体勢のまま、最短の動きで首を捻り、ナイフの切っ先を紙一重でかわすと、そのままカナの足首を掴んで強引に引き倒した。
床に叩きつけられた衝撃を殺す間もなく、カナがコウタの顔面に膝を叩き込み、鼻柱が折れる鈍い音が響く。視界が真っ赤に染まる中、コウタは笑った。痛みなどとうに置き去りにし、ただ目前の「殺意」だけを貪るように、カナの首を絞め上げる。
「っ、が……は……ッ!」
カナがコウタの腕に爪を立て、肉を抉り取る。
互いに技術など捨てていた。髪を掴み、噛みつき、急所を無様に潰し合う、泥の中の乱闘。蛍光灯が火花を散らして消え、薄暗がりの中で火花を散らすのは、ナイフと短剣がぶつかり合う金属音だけだ。喉元を狙う刃、それを防ぐために差し出された腕が、互いの血で滑る。
やがて、どちらからともなく動きが止まった。
完全に限界を超えた筋肉が痙攣し、互いに相手を仕留めきれないまま、再び泥のように床へ沈み込む。
不思議な解放感が、二人の間に漂っていた。これほど本気で、これほど容赦なく、誰かに自分をぶつけたのは、これが初めてだったのだ。
「……ねえ。……なんで笑ってんのよ、気持ち悪い。……あんた、本当に、反吐が出るわ」
カナが震える声で吐き捨てる。だが、その言葉にはもはや先ほどまでの鋭い拒絶はなく、どこか共犯者を見つけたような、甘い毒が混じっていた。
カナは一瞬、呆気に取られたように目を見開いた。
殺意をぶつけ、本気で命を奪おうとした相手から差し出されたのは、あまりに歪で、けれどこの世のどんな愛の言葉よりも誠実な「地獄への招待状」だった。
この男は、自分の「正しさ」ではなく、自分の「狂気」を愛でると言っているのだ。
「…あんた、本当にバカね。……後悔しても知らないわよ。……いつかあんたが寝てる間に、……その首、……思いっきり、掻き切ってあげるから」
カナは弱々しく、けれどどこか嬉しそうに笑いながら、コウタに向かって震える中指を立てた。
その時だった。
彼の鼻先から垂れる血の匂い。擦りむいた指先の生々しい鉄の香り。破れたシャツの隙間から漏れ出す、汗と彼自身の熱が混ざり合った、濃密な空気。
それが、カナの鼻腔を一瞬で満たした。
(……あんたの匂い。……血と汗と、それから……)
カナは無意識に、一歩、彼に近づいていた。
この男は、自分の命を賭けて、私と殺し合った。
この傷は、私がつけた。
この血は、私が流させた。
この匂いは——私が、引き出した。
「……いい匂い」
言葉が、勝手に零れた。
コウタが呆けた顔で「は?」と聞き返す。カナは我に返り、真っ赤になった顔を背けようとしたが、それでも彼の首筋から漂う「戦いの残り香」からは逃れられなかった。
「……ち、違うわよ! べ、別にあんたの匂いが好きだとか、そういうんじゃ……! ただ、さっきまで殺し合ってた相手が、こんなに……こう、なんていうか……」
「……なんていうか?」
「……むさ苦しい匂いさせてるから、ちょっと気になっただけよ! 変態!」
カナはそう叫びながらも、もう一度だけ、こっそりとその匂いを吸い込んだ。
鉄と汗と、壊れた照明の焦げたような香り。
それらが混ざり合った、この男だけの「契約」の匂い。
深夜の訓練場。汚濁と血の匂いの中で、二人の間には世界で一番不潔で、世界で一番純粋な「契約」が成立していた。
路地裏の入り口に、買い物袋を抱えた近隣の住民らしき女性が立ち尽くしていた。
彼女の目に映ったのは、まるで殺し屋同士が潰し合った後のような、凄絶な光景だった。
壁には無数の抉り傷。剥げたコンクリートの破片が散乱し、その上にべっとりと血痕が点々と続いている。折れたナイフの刃が、蛍光灯の残光を鈍く反射させていた。
そしてその中心で、二人は息絶えたように沈み込んでいた。
男は壁に寄りかかり、両脚をだらりと投げ出している。白いシャツは無残に引き裂かれ、そこから覗く腕や胸元には、爪で引き裂かれた生々しい傷跡が幾重にも刻まれていた。顔面は血で覆われ、鼻からは今も鮮血が滴り落ちている。口元を拭おうとしたのか、手の甲にも濃い赤がべったりと付着していた。カメラバッグは放り出され、彼自身もそれと同じように、そこに「置き去りにされた」かのようだった。
対する女もまた、無惨な有様だった。
壁から少し離れた場所に、崩れるように座り込んでいる。自慢の装備——スカートも上着も、ところどころが大きく裂け、露出した肩や膝からは血が伝っていた。頬に走る切り傷からは、まだ止まぬ血が滴り、彼女の白い肌を赤黒く汚している。髪は乱れ、手の爪は何度も壁や腕に叩きつけたのか、先端が割れ、血がにじんでいた。
だが、それでも彼女はナイフを離さなかった。指先は震えながらも、柄を握る力だけは衰えていない。彼女の膝元には、折れた刃と、抉れ落ちたコンクリートの破片が、血と混ざり合って散らばっていた。
二人の間には、冷めきらぬ殺気の残滓が、まだ漂っている。互いの喉元を狙い合った刃の痕跡。相手の髪を掴み、引き倒し、噛みつき、蹴り上げた——そんな泥沼の闘いの余韻が、剥き出しの皮膚と皮膚の間で燻っていた。
男は壁に預けたまま、血に濡れた顔で虚空を睨んでいる。女は膝を抱え、獲物を狙う獣のような鋭さを失っていない。
その光景は、あまりにも「事件」だった。血の匂いが充満する深夜の路地裏。誰が見ても、ここで命の奪い合いがあったと確信するだろう。
それでも、二人は生きていた。息絶えたように見えて、互いの呼吸だけは、確かに聞こえていた。荒く、浅く、それでも確かに——命を燃やし尽くした後の、燃えかすのような呼吸が。
女性が震える手でスマートフォンを取り出す。その指は、間違いなく「110」の数字を打とうとしていた。
「……警察、警察呼びますからね!」
女性が震える手でスマートフォンを取り出す。
その瞬間、二人の間に流れていた濃密な殺気が、霧が晴れるように消え失せた。
コウタは即座に短剣をカメラバッグへ滑り込ませ、頬の傷を隠すように顔を背けると、困ったような、それでいて人当たりの良い笑みを浮かべてみせた。
「あはは、すみません。……ちょっと、口喧嘩というか、言い合いになっちゃって。派手に動いちゃいましたけど、ただの痴話喧嘩ですから」
「そう……そうなの。……ちょっと、熱くなっちゃって。ごめんなさい、お騒がせしました」
カナもまた、血のついたナイフをスカートの裏に隠し、先ほどまでの狂犬のような気配を微塵も感じさせない、殊勝な態度で頭を下げた。
女性は不信感を露わにしながらも、二人の整った容姿と、一見すれば「よくあるカップルの痴話喧嘩」に見える演技に毒気を抜かれ、渋々とその場を立ち去った。
沈黙が戻る。
コウタは左手をかざし、自身とカナの傷口に、清冽な水を纏わせた。
【肉体回帰】。
100メートルを全力で駆け抜けた直後のような、心臓を鷲掴みにされる重い疲労が全身を襲った。視界がちかちかと明滅し、立っているのが不思議なほどの倦怠感が、鉛のように手足へ溜まっていく。
だが、その魔導の波紋が二人の肉体を撫でた瞬間、頬の裂傷も肩の抉れも、まるで最初からなかったかのように「修復」されていった。
「…あはっ、すごい。消えていくわ」
カナが、自分の肩を見つめて声を漏らす。
「……これで、文句ねえだろ。……痕跡は、全部消した」
コウタは膝をつきそうになるのを、壁に手をついて堪えた。魔法を行使した代償として、戦闘後は自力で帰宅する気力すら失われるほどの虚脱感が彼を支配している。
「……そういや、ここ」
コウタが不意に、天井の換気扇の回る音に耳を澄ませるように呟いた。
「……なによ」
カナが訝しげに問い返す。コウタは一瞬、何かを言いかけ、それから自分の口端についた血を舐め取って、満足げに目を細めた。
「……いや、なんでもない。…………行くぞ、カナ。……お前の死に場所は、ここじゃないだろ」
カナはふらりと足を踏み出し、コウタの胸元に顔を寄せた。




