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第五十四話:『殺意の産声、あるいは血塗られた契約』
三年前。ギルドロビーの喧騒は、今の二人を囲う静寂とは無縁の、ただただ騒がしいだけの場所だった。
隅のベンチで、一人孤独に武器の手入れをしていたカナの前に、一人の青年が影を落とした。
「カナさん。……あ、忙しいところごめん」
少しだけ緊張した面持ちで、けれどその瞳には隠しきれない好奇心と情熱を宿したコウタが立っていた。手元のカメラバッグをぎゅっと握りしめる姿は、どこか青臭い一生懸命さに溢れている。
「カナさんさ。……好きな人とか、いる?
ゴメンいや、変な意味じゃなくて。……いっつも一人じゃない? 良かったら、俺と組んでくれない?」
カナは顔を上げず、研石を動かす手を止めない。冷たく、突き放すような空気が彼女の周りだけ凍りついていた。
「カナさん結構強いけど、ソロだと厳しくない?」
「………あんた、バカぁ? 死ねよ」
カナはそこでようやく手を止め、忌々しげに顔を上げた。自分に向けられた真っ直ぐな視線に耐えきれず、鋭い拒絶を突きつける。
「ていうか、あんた誰よ」
「あはは、ゴメンゴメン、俺コウタって言うだけどよろしく。ずっとあんたのこと見てたんだ。ファンみたいなもん……別に嫌いでもいいよ。でも、カナサンの戦い方、俺は好きだから。Dtubeとかやってないの?」
「…消えろ、ザコ、うっせえわ」
短く吐き捨てられた拒絶。だが、コウタは引き下がらなかった。それどころか、あろうことかカナの獲物であるナイフの刃先に指を伸ばし、その冷たさを確かめるように微笑んだ。
「はぁ……?なんだお前」
その瞬間、ロビーの空気が爆ぜた。
カナがベンチを蹴って跳び、手にしたナイフがコウタの喉元を刈り取る軌道を描く。
「なんだよ!!」
だが、コウタは驚くほど冷静だった。最短の動きで首を逸らし、重いカメラバッグを盾にするのではなく、あえてカナの懐へ飛び込む。
金属音が響く。コウタは隠し持っていた短剣でカナの刃を受け流し、そのまま彼女の手首を捻りあげた。
「……っ!?」
「カナサン案外てめえの方が雑魚だねぇ!
弱えなぁカスが!」
二人の影が、ロビーの床で激しく交錯する。カナの刺突をコウタが捌き、コウタの組み付きをカナが膝蹴りで引き剥がす。
五分間。
周囲のハンターたちが呆然と立ち尽くす中、二人は至近距離で互いの命を削り合うような、異常なほど濃密な「対話」を繰り広げた。
カナの瞳に、初めて「敵」としての、そして「同類」としてのコウタが焼き付いていく。
「おい、やめろ! ギルド内でやり合うな!」
周囲の職員たちが数人がかりで二人を引き剥がした。
肩で息をしながら、カナは乱れた髪の間からコウタを睨みつける。その顔は怒りに満ちていたが、同時に「高揚感」で紅潮していた。
「おい、ナンパ野郎!てめえ生理的に無理!」
「……はあ!? てめぇぶっ殺す」
一触即発の二人の間に、数人のベテラン職員が割って入り、力ずくでその殺気を抑え込んだ。
「いい加減にしろ! これ以上騒ぐならライセンス剥奪だぞ! ……さあ、お互い謝りなさい!」
職員の怒声と周囲の冷ややかな視線が、熱狂した二人の頭を強制的に冷やしにかかる。
コウタは切れた口端を拭い、ふっと肩の力を抜くと、先ほどまでの冷徹な光を消して、困ったような苦笑いを浮かべた。
「……あはは、ごめんねカナさん。お詫びに何か奢るよ。流石にやりすぎた。すみませんでした、皆さん」
コウタはカメラバッグを丁寧に抱え直し、周囲の職員たちに深々と頭を下げた。どこにでもいる善良な青年の顔。
それを見たカナも、乱れた髪を整え、お淑やかな声音で応じた。
「……こちらこそ、ごめんなさい。つい、カッとなっちゃって。もう大丈夫ですから」
伏せられた睫毛の奥に、鋭い殺意を隠し、彼女は小さく肩をすくめてみせる。
先ほどまでの狂犬のような気配は霧散し、ロビーには「少し激しい口論をした男女」という、ありふれた日常の断片だけが残された。
「ありがとう。……じゃあ、行こうか」
「ええ、そうね」
二人は連れ立って、ギルドの重厚な扉を抜けた。
表通りを歩き、人通りの絶えた路地裏へと曲がる。そこは湿ったコンクリートと廃油の匂いが漂う場所。
二人の足音が、行き止まりの壁の前で同時に止まった。
その瞬間、静寂が裂けた。
「カナさん、ごめんね。――さっさと死ね」
コウタの右手が、笑みを浮かべたままカメラバッグの底から短剣を抜き放ち、カナの心臓を最短距離で貫こうと走る。
「あら、ごめんなさい! これで再起不能かと思ったのに! ……モヤシ!」
カナは、まるで舞うような動作でその刃を躱すと、スカートの裏に隠していたナイフを逆手に取り、コウタの喉元を横一文字に薙いだ。
先ほどまでの謝罪も、感謝も、すべてはこの一撃を確実に叩き込むための、精巧な「まやかし」に過ぎなかった。
「……にひー。ねえコウタ、あんたのその『いい人』の仮面、剥がすの最高に気持ちいいわ」
「奇遇だな。俺もお前のその『殊勝な態度』、吐き気がしてたところだよ」
二人のナイフが火花を散らし、再び至近距離で噛み合う。
ロビーでの喧騒は、ただの「前座」。
火花が路地裏の湿ったコンクリートに散る。
コウタの短剣がカナの頸動脈を狙い、カナのナイフがコウタの心臓を最短距離で突く。
互いに一歩も引かず、刃がぶつかり合うたびに火花が爆ぜ、金属音が狭い路地に反響した。
「あんた、さっきの『いい人』の顔、どこに捨ててきたの? ……キッショ!」
カナの瞳に、宿命的な飢餓感が宿る。
【飢餓の獣】が、目の前の獲物を「食い殺したい」という衝動を筋力へと変換し、彼女の踏み込みを加速させた。
一閃。カナのナイフがコウタの頬を裂き、鮮血が舞う。
「……っ、お前こそ、その猫なで声はどうした! ……死ねッ!」
コウタは頬の傷を無視し、左手を至近距離でカナの胸元へ突き出した。
一瞬の集中。
指先から高密度に圧縮された水が、大気を引き裂く轟音とともに放たれた。
【水槍】。
それは牽制ではない、確実に肉を穿つための暴力。
「あら、ごめんなさい! そんなの、当たらないわよ! ……エイムって知ってる?」
カナは身体を限界まで捻り、弾丸のような水槍を回避した。
だが、完全に避けきれてはいない。
水槍の余波が彼女の肩の皮膚を抉り、織色製の戦闘服を無残に引き裂く。
赤黒い血が彼女の銀髪に飛び散るが、カナはそれすら快楽であるかのように口角を吊り上げた。
「…痛い。痛いわ。……お返しに、その手足を全部縛り付けてあげる」
着地と同時に、カナの背後から「粘着質な影」が触手のように伸びた。
【絡め取る残火】。
逃がしたくないという執着が、強靭な糸となってコウタの四肢に襲いかかる。
「てめえのほうがキメエんだよ!」
コウタは咄嗟に足元へ水を放出し、その反動で後方へ跳んだ。
糸が空を切り、コンクリートの壁を無残に叩き潰す。
互いに息を乱し、血を流しながら、二人は再び、殺害可能な距離(間合い)を保って対峙した。
「……なあ、カナさんいいこと。思いついたわ殺してお前を俺のもんにしてやるよ」
「……あら、あら、あんたの脳ミソ腐ってるわ。あんたのもんになるなら自殺してやるけどね」
静寂が戻る。
だが、それは終わりではない。
路地裏の廃油の匂いの中で、二人は互いの「殺意」の純度に、どうしようもない心地よさを感じていた。
これこそが、自分たちがずっと探し求めていた、嘘のない世界の手触りだった。




