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第五十三話:『泥中の真珠、あるいは錆びた正論』
ギルドロビーに響く管理官のスピーカー音声。それは「組織の論理」という名の、あまりに清潔で、あまりに冷酷な自己保身だった。
「ええ局長。現場の独断を私が必死にカバーしたと説明しておきます。彼らは責任の取り方を理解していないので」
コウタとカナは、その声を背中で聞きながら通路を歩いていた。
管理官にとっての「責任」とは、誰かに押し付けるための道具。
カナにとっての「責任」とは、相手の毒を丸ごと飲み干し、運命を共にすること。
コウタは足を止め、振り返ることなく一瞬だけ指を動かした。
精密な機械操作を本業とする指先が、管理官のスマホのセンサーを誤作動させ、通話を「バックグラウンド継続」へと固定する。
何も知らない管理官は、切れたと思い込んだスマホに向かって、本音という名の汚泥を吐き出し始めた。
「……はぁ。やっとあのゴミ共を黙らせたよ。あの日、飲み会で連絡無視したなんて証拠、どこにもないしな。適当に『現場のミス』って書いとけば、俺の査定は安泰だ」
ロビーに響き渡る下卑た笑い声。だが、それは同時にスピーカーの向こう側の局長にも、そしてロビーにいる全員にも、彼の「正体」を晒し続けていた。
カナがクスクスと、肩を揺らして笑い出した。
「ねえコウタ。世間様の言う『正しい大人』って、あんなに薄っぺらくて汚いのね。あんなのが清潔な生活をして、健康的な食事をしてるなんて、笑っちゃうわ」
カナはコウタの腕を強く抱きしめ、先ほど口に塗りつけられた「ドロドロの饅頭」の感触を思い出すように舌を出した。
「あいつの言葉は嘘ばっかりだけど、さっきあんたが食べた私の愛は、本物だったでしょ? 世間があれを汚いって言っても、あいつの『綺麗なた嘘』より、よっぽどいいわ」
コウタは、スピーカーから局長の怒号が響き渡り、管理官が断末魔のような悲鳴を上げるのを、背後で淡々と聞き流した。
わざわざ戻って嘲笑う必要さえない。
あんな「自分を守るために他人を売る」ような生き物は、二人の住む泥沼にすら入ってこれない、ただの背景に過ぎない。
コウタがカナを抱き寄せ、ロビーの喧騒を背に歩き出す。
管理官の断末魔のような声は、まだ背後で響いている。
「局長!? いえ、それは──」
「なんで!? なぜ通話が──」
カナがくすくす笑う。
「聞こえてるよ、あいつの慌てふためく声。あんなに偉そうにしてたのに、今じゃ哀れなネズミみたい」
二人はギルドの通用口をくぐり、外の雑然とした路地裏へ出る。
ここはギルドの「表」とはまるで違う世界。
ゴミが散らかり、アスファルトには油の染み。
カナはその空気を深く吸い込んだ。
「ああ、これだ。こっちの空気の方がずっと好き」
「錆びた鉄の匂い、腐った野菜、廃油……全部、あのロビーの『無菌室の匂い』よりずっとマシ」
コウタは黙ってカナの手を握り直す。
彼女の指は冷たい。いつもより少し震えている。
「……悔しかったんだろ」
「あんたもよ」
認め合う必要はない。
二人は同じものを感じていた。
あの管理官の、薄っぺらで卑怯で、それでいて「社会的には正しい」立ち振る舞い。
あの「責任」という言葉の濫用。
あの「組織の論理」という名の暴力。
路地の奥にあるいつものベンチに腰を下ろす。
カナがコウタの膝の上に足を投げ出し、後ろにもたれかかる。
「あの管理官さ」
カナが空を見ながら言う。
「たぶん、家に帰れば『お父さんは今日も会社で頑張ったんだよ』って、子どもに言うんだろうな」
コウタは鼻で笑った。
「そんで、奥さんには『部下がまた失敗してさ、俺がカバーしたんだよ』って自慢する」
「給料はそこそこもらって、週末は家族でレストランに行く」
「健康診断は全部A判定。飲み会でも『若いもんは責任感がなっとらん』って偉そうに講釈垂れる」
カナが突然、激しい口調で続ける。
「でもあいつの中身は腐ってる。完全に空洞だ。あいつの言う『責任』って言葉、ほんとに軽いんだよ。紙切れみたいにペラペラで、都合が悪くなったらすぐ燃やせる」
コウタはうなずく。
「ああ。あいつにとっての責任は、『取る』ものじゃなくて『押し付ける』ものだ」
二人の間で、管理官の言葉が再現される。
「『私は任せただけです。信頼という言葉をご存じですか?』」
カナが嫌そうに顔をしかめる。
「ああ、もう。あの言い草、ほんと腹立つ。だってさ、あれ、全部逆だよ?」
コウタが続ける。
「信頼して任せるんじゃない。責任を取りたくないから丸投げする」
「それで失敗したら『信頼を裏切られた』」
「成功したら『私のマネジメントが良かった』」
「ほんと、都合のいい脳みそしてるわ」
カナがコーヒー自動販売機の空き缶を蹴飛ばす。
缶がカラカラと転がり、コンクリートに悲しげな音を立てる。
「でもさ、コウタ」
カナの声が突然、深いところから湧き上がってくる。
「ああいうやつ、絶対報われないよな? 社会的には成功するかもしれない。出世するかもしれない。でも……」
「魂が腐ってる」
コウタが言葉を継ぐ。
「あいつはもう、自分が何を感じてるのかさえわからなくなってる。感情全部、『こうあるべき』に置き換わってる」
しばらく沈黙が流れる。
路地の向こうで、猫がゴミ箱を漁っている。
「……私、ああはなりたくない」
カナが小さく言う。
「たとえ汚れても、泥まみれでも、本物でいたい」
コウタはカナの髪を乱暴に揉む。
「お前はもう十分本物だ。むしろ本物すぎて、世間からは変人扱いだ」
「あんたもよ」
「ああ」
そしてカナが、突然鋭い指摘をする。
「でもね、コウタ。私たち、実はあの管理官に少し似てる部分あるよな」
コウタの動きが止まる。
「……どういうことだ」
「私たちもさ、『パワハラお嬢と無能ポーター』って役割に逃げてるじゃん」
カナの目が、自嘲に曇る。
「あの管理官が『優秀な管理者』って仮面をかぶってるように、私たちも『歪んだカップル』って仮面をかぶってる。それで現実から逃げてる」
深い洞察だ。
コウタはしばらく考えてから言った。
「違う」
「どこが?」
「仮面をかぶってるかどうかの違いだ」
コウタはカナの顔をしっかり見つめる。
「あいつは仮面が本物だと思い込んでる。でもお前は……お前は仮面が仮面だと自覚してる。その中で、それでもこれが一番マシだって選んでる」
カナの目がわずかに潤む。
「……そんなに信用していいの? 私のこと」
「お前が自分を信用できなくても、俺は信用する」
また沈黙。
今度は重いが、苦くはない。
遠くでサイレンの音がする。
ギルドからは、まだ管理官の声が微かに聞こえてくるような気がする。
「ねえ、コウタ」
「ん?」
「私たち、このままでいいんだよね」
「……ああ。少なくとも、今はこれでいい」
カナがコウタの腕にしがみつく。
「だって、あのロビーより、こっちの方がずっと呼吸がしやすいもん」
コウタは何も言わず、ただ抱きしめる。
路地裏の汚れた空気が、彼らにとっては唯一の純粋なものだった。
そして彼らは知っていた。
明日も、明後日も、管理官のような人間は現れる。
綺麗な顔をして、責任を押し付け、自分は無傷でいようとする人間が。
でもそれでもいい。
彼らにはこの路地裏がある。
汚れて、臭くて、誰も見向きもしないこの場所が。
「帰ろう」
「うん」
二人はベンチから立ち上がる。
背後では、猫が魚の骨を咥えて去っていく。
彼らが去った後も、路地裏には二人の言葉が残る。
それは管理官の「綺麗な嘘」とは違う。




