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第六十四話:『重い鎧、あるいは現実への帰還』
机の上で震えるスマホの通知。
コウタはそれを一瞥し、溜まった連絡を指でなぞる。
けれど、彼はそれを無視して画面を閉じ、背中に張り付いたままのカナへ、不器用な提案を投げかけた。
「カナ。映画、行かないか?」
カナはコウタの肩に顔を埋めたまま、不思議そうに瞬きをする。
「映画?」
「ああ。今、『オイモ』で流行ってるやつ。評判いいし、たまには、映画館で観るのもいいだろ。デートみたいにさ」
『デート』という単語に、カナの肩がぴくりと跳ねた。
けれど、彼女はすぐに唇を尖らせ、コウタのシャツの裾をぎゅっと握りしめる。
「そんなの、家でいいじゃん。サブスクで出るまで待ってさ。二人で酒飲みながら、ここでダラダラ観ればいいよ」
カナにとって、アパートの外は「敵地」だ。
自分たちを『まとも』な枠に押し込もうとする世界。
けれどコウタは、珍しく譲らない様子で、片付けかけのゴミ袋を横に置いた。
「でけぇスクリーンで観てぇんだよ。音もいいし。たまには、外の空気も吸わないと、二人して腐り果てるぞ」
コウタの言葉に、カナは困ったように視線を落とした。
栗色の髪を指先で弄り、自分の姿と、この三日間で作り上げられた『聖域』を交互に見る。
「ねえ、コウタ。私、外行きの服なんて持ってない。まともな服、あんまりないもん。いつも、あんたの服着てるし。それに」
カナは少しだけ顔を赤らめ、消え入りそうな声で付け加えた。
「映画館だと、あんたとくっつけない。イスって、個人のスペースが決まってるじゃない。誰にも見られない場所で、こうして触れていたいのに」
カナの言葉は、切実な拒絶だった。
他人の目がある場所で、一定の距離を保たされることへの恐怖。
コウタは、そんな彼女の執着を苦笑いで受け流す。
「あぁ、まあ、そうだけどな。カップルシートとかもあるし、そこなら隣だぞ」
コウタは、カナの不安を半分も分かっていないのかもしれない。
あるいは、分かっていてわざと外へ連れ出そうとしているのか。
カナは、コウタの瞳をじっと見つめ、彼の本気度を推し量る。
「でも、いきたい? コウタが、私と一緒に行きたいって、思ってるの?」
カナの問いには、僅かな期待と、それ以上の、自分を繋ぎ止めてほしいという渇望が混ざっていた。
三日間、コウタの体温が染み付いたスウェットの中で過ごした。
それを脱ぎ捨て、クローゼットの奥から「外行きの服」を引っ張り出す作業は、カナにとって、自分の皮膚を一枚剥ぎ取るような苦痛を伴った。
鏡の前で、パステルカラーのブラウスと、少し短めのスカートを合わせる。
それはかつて、誰かに「女の子らしい」と評価されるために用意した、自分でもない、コウタでもない、空っぽの記号だった。
(自分の匂いがする。嫌だ。気持ち悪い)
洗濯された清潔な布地からは、コウタのタバコや汗の匂いは一切しない。
自分自身の、どこか冷たくて無機質な匂い。
カナは耐えきれなくなり、棚にあったきつい香水の瓶を手に取ると、手首や項に過剰なほど吹き付けた。
花の香りで自分の存在を塗りつぶし、境界線を曖昧にしようと足掻く。
リビングに戻ると、コウタが少しだけ目を見開いて、彼女を眺めていた。
「なんだ。久しぶりに見た気がするな。カナの私服、かわいいよ」
コウタ의 言葉は、本来なら喜ぶべき「まとも」な称賛だった。
けれどカナは、悲しげに瞳を揺らし、自分の肩を抱くようにして俯いた。
「コウタ、そうじゃない。本当は、あんたの服の方が百倍着たい。自分の匂いしかしない服なんて、私には、冷たすぎて」
カナはそこまで言うと、我慢できなくなったようにコウタの胸元へ飛び込んだ。
香水の人工的な香りと、コウタの生々しい体温が混ざり合う。
彼女はコウタの首筋に顔を埋め、彼の心音を確かめるように強く抱きついた。
「でも、ありがとう。一緒に行ってくれるんでしょ?」
カナは顔を上げ、潤んだ瞳でコウタを見つめた。
映画館という、個人のスペースを強制される場所。
自分たちの「同化」が許されない、公共の場。
彼女はコウタのシャツに顔を擦り付け、その熱を無理やり自分に移そうと躍起になる。
「早く、あんたの匂いに書き換えたくて。だから、映画館でも、ずっとくっついててね。約束だよ、コウタ」
カナの「ニタニタ」とした歪な笑みが、戻っていた。
「普通」の格好をしても、その中身は一分一秒でも早く自分をコウタで上書きしたいという、狂気的な依存心に満ちている。
コウタは、香水の香りに咽せながらも、自分の腕の中に収まった「小さな異物」を、力強く抱きしめ返した。
シネコンのロビーは、家族連れや浮かれた学生たちの声で満ちていた。
まばゆい照明とポップコーンの甘い匂い。
三日間、暗い部屋で互いの脂気にまみれていた二人にとって、そこはあまりに清潔で、暴力的なまでに「公共」の場所だった。
チケットの券売機に並ぶ列。
前の客が進むのを待つわずかな隙に、カナの細い指が、コウタのシャツの裾から内側へと滑り込んだ。
「っ、つめたっ! おい、人見てるからやめろって」
コウタが顔を強張らせ、小声でたしなめる。
だが、香水の匂いをきつく纏ったカナは、気圧されるどころか、挑発するように周囲を無機質な瞳で見渡した。
「どうせ私たちなんて、誰も名前も知らない。その辺の置物みたいなんだから、いいじゃない。タヌキの置物よ」
「いや、今どきそんなもん置いてる家ねえよ。目立つから、手ぇ出せ」
コウタがカナの手首を掴んで引き剥がそうとすると、彼女は不意に動きを止め、真剣な顔で彼を覗き込んできた。
「ねえコウタ。道端でキスするカップルって、なんであんなことできるか教えて」
「そういうやつらは、ネジが数本外れてんだよ。いいから前進め」
コウタが無理やり列を詰めると、カナは「ちょっとお手洗い」とだけ言い残し、ふらりとその場を離れた。
一人残されたコウタは、周囲にスマホを向けている奴がいないか、過敏なほど視線を走らせる。
(ったく。撮られて晒されてみろ。社会的に死ぬわ)
数分後。
戻ってきたカナは、何事もなかったような顔でコウタの隣に並び、彼のズボンのポケットに、音もなく「何か」をねじ込んだ。
「カナ、なんだこれ」
ポケットの中の異物感。
カナはコウタの肩に顔を寄せ、囁くような、けれど震えるほど熱い声で耳元を打った。
「トイレットペーパー。大きな声、出さないでね」
「っ!? お前、どういうつもりだよ」
コウタが絶句し、周囲に悟られないよう喉の奥で押し殺した声を出す。
公共の、誰の目があるかも分からない場所で。
カナはニタニタと、壊れた機械のように幸福な笑みを浮かべていた。
「ここでキスするより、私の『好き』の方が、ネジ飛んでんのよ。でも、ただのトイレットペーパーかもしれないわよ。触って、確かめたら?」
コウタはポケットの中の「それ」に触れることもできず、ただ自分の顔が急速に熱くなっていくのを感じていた。
彼女は、試している。
「まとも」なフリをして外へ出ようとするコウタを、自らの異常な執着で汚し、逃げ場を奪おうとしているのだ。
映画館の喧騒の中で、二人だけの、悍ましくも甘い秘密が、ポケットの中で静かに熱を持っていた。




