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第五十一話:『咀嚼する女神、あるいは毒の揺り籠』
朝の光が、埃の舞う四畳半を無遠慮に照らしていた。
コウタが重い瞼を持ち上げると、まず耳に飛び込んできたのは、キッチンから聞こえる奇妙な音だった。
クチャ、クチャ。
何かを執拗に、顎を動かして噛み砕く、生物的な音。
コウタが身体を起こすと、そこには自分のシャツを羽織っただけのカナが、椅子に深く腰掛け、一心不乱に口を動かしている姿があった。
「お前、朝から何食ってんだよ」
コウタの掠れた声に、カナはゆっくりと顔を上げた。彼女は飲み込むこともなく、指先で口の中から「それ」を掬い取った。
「にひー。起きたのね、コウタ。ほら、これ食べなさいよ」
カナが指で示したのは、昨日彼女が「汚してやる」と宣言した、コウタの実家土産の饅頭だった。だが、それはカナの体液と混ざり合い、粘り気のあるドロドロの塊へと変質していた。
「お前、本気で言ってんのか? 汚ねえんだよ、マジで」
コウタが顔をしかめて身を引くと、カナは不満げに鼻を鳴らし、そのままコウタの膝に割り込んできた。
「汚くないわよ! 調べてみたの。昔の人はこうやって、子供に噛み砕いて食べさせてたんだから。あんた、どうせこういうの嬉しい変態でしょ? ほら、食べなさいよ」
「っ、今は違うんだよ。衛生面とか考えろ。普通に嫌だし、いやいやだよ。無理だわ」
コウタが冷たく突き放すと、カナの顔色が一瞬で変わった。瞳に鋭い怒りが宿り、コウタの胸ぐらを掴んで引き寄せる。
「はあ!? 何が嫌よ、何がいやいやよ! あんた、私といつもキスしてるじゃない! その時は汚いなんて言わないくせに、今更何カッコつけてんのよ、この偽善者!」
図星を突かれ、コウタは一瞬言葉に詰まる。だが、そのまま引き下がるのも癪に障り、彼は意地悪な笑みを浮かべて問い返した。
「じゃあ、お前はどうなんだよ。立場が逆だったら、俺が噛んでドロドロにしたやつ、お前は食えるのか?」
絶対に「嫌だ」と言うはずだ。そう高を括っていたコウタに対し、カナは一点の曇りもない、狂気に満ちて見開かれた瞳で即答した。
「食べれるわよ」
「えっ?」
絶句するコウタを置き去りにして、カナは近くにあったスルメの袋をひったくると、それをコウタの口にねじ込んだ。
「ほら、これ! 今すぐ噛んで吐き出しなさいよ! 早く! 食べ切れないくらい私に食べさせなさいよ!」
血走った目で迫るカナに、コウタは冷や汗を流しながら顔を背けた。
「いや、やめとくわ。それは流石に、こっちの理性が死ぬ」
「ふん。へたれね、コウタ。口だけなんだから」
カナはつまらなそうに鼻を鳴らすと、自分の指についた饅頭の残骸を、コウタの唇に乱暴に塗りつけた。
「ねえ、あなた私にアレルギーでもあるの? 虫歯菌? 衛生面? ちゃんと反論するならしなさいよ。あなたの感じる嫌い、全部私に教えてよ」
カナはコウタの顔を両手で挟み込み、逃げ場を奪うように至近距離で言い放った。その瞳には、嫌悪されることへの恐怖など微塵もなかった。むしろ、コウタの拒絶という「反応」を餌にして、さらなる執着を深めようとする貪欲さだけが渦巻いている。
「アレルギーなわけねえだろ。今更何言ってんだ。俺が言ってるのは、お前のその、愛情表現の方向性が野生動物すぎるって話だよ。まともな人間のやることじゃねえ」
コウタが吐き捨てた言葉に、カナは一瞬、獲物を見つけた猛獣のような笑みを浮かべた。
「今、愛情表現っていったでしょ自分で。なんで愛情ってわかってて嫌がるの? 世間のあたりまえより、わたしのこととってよ」
カナの指がコウタの首筋に食い込む。その力は、慈しみというにはあまりに暴力的で、けれど必死だった。
「あたりまえなんて、誰でもできるのよ。清潔で、健康で、まともな食事。そんなの、私じゃなくてもいいじゃない。あんたが私のこと好きだって言うなら、私のこの汚いところも、全部飲み込みなさいよ。それとも、やっぱり世間の正しさの方が大事なわけ?」
カナはコウタの顔を両手で挟み込み、至近距離で言い放った。その瞳には、嫌悪されることへの恐怖など微塵もない。むしろ、コウタの拒絶という反応を餌にして、さらなる執着を深めようとする貪欲さだけが渦巻いている。
コウタは唇に塗られた粘りつく感触を舌で拭い、喉の奥で微かに笑った。正論で武装したはずの自分の理性が、彼女の「わたしのこととってよ」という幼い剥き出しの言葉によって、あっけなく瓦解していくのを感じる。
「…………ははっ。本当、救えねえな。お前の勝ちだよ、カナ。世間の常識なんて、最初からこの部屋には必要なかった」
コウタは諦めたように息を吐き、カナの腰を引き寄せた。
「……でも嫌なもんは嫌だから。お前が俺を壊したがってるなら、その毒ごと飲み込んでやるけど……。それとこれとは話が別だ。汚ねえもんは汚ねえよ」
冷たく突き放す言葉とは裏腹に、コウタはカナの唇に残った饅頭の残骸ごと、深い口づけでその狂気を回収した。実家の思い出も、現代の衛生観念も、今はどうでもいい。ただ、カナの唾液の苦味と、彼女の体温だけが、この閉ざされた空間における唯一の正解だった。
「にひー。それでいいのよ、コウタ。嫌がりながら、私の毒だけで生きてればいいの。あんたには、それくらいの不自由がお似合いだわ」
カナは満足げに笑い、コウタの胸ぐらを掴んだまま、勝ち誇ったように首を傾げた。
「ねえ、コウタ。ミキサーとか電化製品がなかった時代は、どうしてたと思う? コウタの好きな世間様の家に、すり鉢ある家減ってきてない? 停電して離乳食作らないといけなくなったら、こうしないとでしょ。結局、これが一番確実で、愛情がこもってるわよ」
「……離乳食パウチで買いだめしとけよ。それ」
コウタの冷静なツッコミに、カナは一瞬虚を突かれたように目を見開いたが、すぐに不敵な笑みを深めた。
「しょうがない! わかったわ!
子供にはパウチで! あんたにはカナチャン特製ドロドロご飯!
もし子供ができてもあんたのことのほうが好きならね!
でもやっぱりコウタとの子供だったらドロドロご飯のほうがいいかな?」
「いや、そんなやつと結婚しねえよ!
あっ、いやゴメン」
「は?何てった!今何てった!」
カナの表情が、氷のように静まり返る。
コウタは彼女の殺気を含んだ視線を鼻で笑い飛ばし、乱暴に髪を掻き回した。
「さっさと支度しろ。今日は仕事だ」
「逃げんなぁ!」
二人の日常は、もはや戻ることのできない、美しくも醜い泥沼へと完全に沈下した。




