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第四十九話:『汚染の完成、あるいは密やかな反逆』
深夜のスーパーの冷気は、実家の静寂を思い出させた。
コウタはカゴにストゼロを二本放り込み、鮮魚コーナーで足を止めた。半額シールの貼られた真鯛の刺身。それが二パック。コウタは迷わず両方をカゴに入れ、さらに一合瓶の日本酒を一本、隠すように忍ばせた。
部屋に戻ると、香水と安酒の混ざった「カナの領域」が、風呂上がりの石鹸の香りを一瞬で塗りつぶした。
「……遅かったじゃない。早く、ストゼロ」
カナはベッドの上で膝を抱え、獲物を待つ獣のような瞳でコウタを凝視していた。
コウタは無言で袋からストゼロを出し、次に刺身のパックを二つ、机に並べた。
「……ほら。お前の分も買ってきたぞ。同じやつだ」
すると、カナは「ふふっ……」と喉を鳴らして這い寄ってきた。彼女は自分の前に置かれたパックを開けることもせず、コウタの前に置かれたパックを強引に引き寄せ、中身の鯛を半分、自分のパックの空きスペースへと移し替えた。
そして、自分のパックに入っていた鯛を、コウタのパックへと無造作に放り込む。
「……おい、何してんだよ。中身、全く一緒だろ。同じ棚に並んでたやつなんだから」
コウタの真っ当なツッコミ。だがカナは、口の端を吊り上げて、子供のように、あるいは壊れた機械のように笑った。
「……にひー。……一緒じゃないわよ。これは『あんたが選んだ』鯛で、こっちは『私に与えられた』鯛。……ほら、これで半分こ。……あんたも私も、これでぐちゃぐちゃに混ざったわね」
カナはさらに、コウタが自分用に買った日本酒の小瓶をひったくると、コップに半分だけ注ぎ、それをコウタに突き出した。
「……酒も半分。……あんたの、私にも分けなさいよ。……そうすれば、あんたの体の中も、私の味でいっぱいになるでしょ?」
カナは動画で学んだ『耳元での囁き』を実践すべく、コウタの首筋に鼻先を押し当てる。
「……あんたが『汚してほしい』なんて言うから、……私、本当に嬉しくて……。ねえ、コウタ。……もう実家のことなんて思い出せないくらい、……私の匂いで、……私の味で、……あんたを塗り潰してあげる」
(……俺、そんなこと一言も言ってねえんだけどな)
コウタは内心で、自分に都合よく言葉を変換し続けるカナの滑稽さに、冷めた笑いを禁じ得なかった。だが、同時に思う。この狂った勘違いに乗っかって、もう少しこの「依存の泥沼」をかき混ぜてやるのも悪くない。
コウタはわざとらしく目を伏せ、震える指先でカナの頬に触れた。
「……ああ。……バレてたか。……俺も、本当はカナに汚して欲しくて、……カナも俺と同じこと思っててくれて……。……カナに、そんなに愛されてるなんて思わなかった……」
コウタの演技に、カナの瞳がさらに大きく見開かれる。彼女の全能感が、頂点へと突き抜ける。
「……カナの味、もっともっと欲しい。……カナ、ごめん。……俺、もう我慢できない……」
コウタはそのまま、陶酔しきったカナの唇に、軽く、けれど確かな所有権を示すようなキスを落とした。
カナの体温が跳ね上がる。自分のテクニックが、言葉が、コウタを完全に陥落させた――その「勘違い」が、彼女をいっそう深い絶望的な愛へと突き落としていく。
コウタは唇を離すと、耳元で小さく笑った。彼女を手のひらで転がす愉悦を、安酒で流し込むために。
キスの余韻が、狭い部屋の空気を甘く、重く停滞させていた。
カナは、自分の心臓が喉を突き破らんばかりに跳ねるのを感じていた。コウタが「我慢できない」と言った。コウタが「もっと欲しい」と言った。
動画の教えは、完璧だった。私はついに、この男を完全に支配したのだ。
カナは震える指でスマホを操作し、次なる「聖典」を求めて画面をスクロールした。
「……つぎ、……次はなによ。もっと、もっと凄いやつを……」
必死な形相のカナの横で、コウタは奪い取った日本酒をコップに注ぎ、冷めた目でその様子を眺めていた。カナがパニック寸前で画面を叩いているのを見て、コウタはくつくつと喉を鳴らす。
「……おい、お前。これなんかいいんじゃない? 『男性を落とす、最強自分磨き講座』。……お前にぴったりだろ」
コウタが指差した動画を、カナは藁をも掴む思いで再生した。
「……っ、そうね。これよ……! これをマスターすれば、あんたをもっと……!」
カナが画面に釘付けになったのを確認すると、コウタは立ち上がり、無造作に部屋の片付けを始めた。空になった饅頭の箱を捨て、散乱したゴミを袋にまとめる。カナは動画の冒頭の「愛される女の条件」という言葉をメモでもせんばかりの勢いで見入っており、背後のコウタには目もくれない。
コウタはふと、カナの肩越しにスマホの画面を覗き込んだ。シークバーの赤い線はまだ左端にあり、動画の総時間は一時間を超えている。
(……まだまだ長いな。……これ、朝までコースか?)
コウタは呆れたように鼻で笑った。自分を繋ぎ止めるための「正解」を、自分自身を見ずに、光る画面の中に必死に探している女。その滑稽さが、今のコウタには最高の酒の肴だった。
コウタは酒を飲み干すと、静かに、音を立てないように自分の布団を敷いた。
「……じゃあな、カナ。しっかり勉強しろよ」
カナからの返事はない。彼女は今、画面の中の講師が語る「追われる女のテクニック」を脳内に刻み込むのに忙しい。
コウタはそっと一人で布団に潜り込んだ。
隣で呪文のように動画の音声を流し続けているカナの気配を感じながら、コウタは実家の清潔な静寂よりも、この不健全で、自分勝手な解釈に満ちた部屋の騒がしさに、心地よい眠気を感じていた。




