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第四十七話:『アンカリングの代償、あるいは逆転の告白』
あの夜、コウタの唇に自分の“匂い”を刻み込んでから、カナの執着はさらに加速していた。
毎日、毎日。吸いつく。吸いつく。吸いつく。
コウタは「酒臭い」と言いながらも、決して拒まなかった。その事実が、カナの支配欲をさらに肥大化させていく。
(……もっと。もっと確実に。彼のすべてを、私のものにするために……)
そして彼女は見つけた。動画の女が言っていた“アンカリング”——特定の匂いを相手に定着させよ、と。
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コウタが実家から戻ってきて三日目の朝。
カナは勝利の美酒に酔いしれていた。
コウタの首筋。枕。そして彼が実家から着てきた清潔なシャツ。
そのすべてに、自分が選んだ毒々しいほど甘い香水を、執拗に、マーキングするように振り撒いていく。
『いいですか? 五感の中で最も記憶に直結するのは“嗅覚”です。特定の匂いを相手に定着させれば、彼はその匂いを嗅ぐたびに、あなたを思い出さずにはいられなくなるのです……』
スマホから流れる動画の言葉が、今のカナには勝利の凱歌のように聞こえた。
「……ふふっ、……これで完璧。……ねえ、コウタ。……あんた、もう一生、この匂いから逃げられないわよ。……実家に帰っても、……寝ても冷めても、……私のことだけ、考えてなさいよ」
カナは上機嫌でコウタの膝に乗り、彼の胸元に顔を擦り付けた。
コウタは「うわ、きっつい……鼻が曲がりそうだ」と顔をしかめて見せるが、その手は優しくカナの背中に回されている。
「……なあ、お前。俺がいない間、ずっとこんなこと考えてたのか? ……わざわざ動画まで見て、熱心なことだな」
探るような、どこか甘いコウタの問いかけ。普段なら警戒するはずのカナも、今は「自分の術中にはまった男の弱音」だと、全能感たっぷりに受け取っていた。
「……そうよ。……あんたを私と同じ地獄に引きずり込むために、……死ぬほど勉強したんだから。……あんたが実家で『安心』なんてしてるのが許せなくて、……どうすればあんたを壊せるか、そればっかり考えてたわ」
饒舌になったカナは、止まらなかった。
孤独だった数日間の焦燥、動画の女の言葉をどう自分なりに「兵器」へ変換したか、そしてコウタが三回鳴る前に電話に出た瞬間の歓喜。
武装であるはずの「テクニック」は、皮肉にも彼女の最も醜く、愛おしい本音を引き出すための呼び水となっていた。
「へえ、……そんなに俺がいなくなるのが怖かったのか。……お前、意外と可愛いところあるな」
「……か、可愛っ!? ……バカ言わないで。……私はあんたを支配して……」
コウタは「はいはい」と、子供をあやすような手つきでカナの頭を撫でる。その瞳は、すべてを吐き出させた満足感に満ちていた。
部屋に充満する、重苦しい香水の匂い。
カナの体温は上がり、彼女の中で「支配」と「依存」の境界線が完全に崩壊していく。
「……ねえ、コウタ。……もう、十分でしょ。……動画でも言ってたわ、……最後の仕上げは、……心も体も、……ひとつに、なることだって……」
カナは潤んだ瞳でコウタを見上げ、彼のシャツのボタンに指をかけた。
今夜こそ、この「完璧な計画」を完遂させて、彼を永遠に自分の檻へ閉じ込める。その確信に震えながら、唇を寄せようとした、その時。
「あー。……ごめん、俺、やっぱ風呂行くわ」
コウタが、唐突に、それでいて恐ろしく自然な動作でカナを膝から降ろした。
「……え?」
「いや、お前が振り撒いた香水のせいで、鼻がバカになりそうなんだよ。……一回洗ってリセットしてくる。……じゃあ、ゆっくりしてろよ」
コウタはそのまま、呆気に取られるカナを残して脱衣所へと消えていった。
残されたのは、甘ったるい匂いが漂う静まり返った部屋と、中途半端に熱を持ったままのカナ一人。
「……え? ……あれ? ……ちょ、ちょっと……!」
カナは慌ててスマホを手に取った。
動画を最初から、それこそ血眼になって見返す。
『最後に心も体も一つになれば、彼はあなたの虜です』。確かにそう書いてある。
けれど、動画の女は教えてくれていなかった。
「アンカリング」のために香水をぶっかけすぎると、相手に「臭いから風呂に入る」という、あまりにも正当な拒絶の口実を与えてしまうなんてことは。
「……。……どこよ。……どこに書いてあるのよ、……この後の、……対処法は……っ!」
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脱衣所からは、気楽なシャワーの音が聞こえている。
カナはスマホを握りしめたまま、ソファに縮こまっていた。
自分の計画は、自分の“やりすぎ”によって、完全に頓挫した。
(……また、だ。……私、また、やりすぎた……。彼は、私の“匂い”を洗い流しに行った。私が必死に刻んだ“証”を、水で全部、流してしまうつもりなんだ……)
自分の膝を抱きしめる。香水の匂いが、自分自身からも強く香っている。
吐き気がするほど甘ったるい。確かに、これは……臭いかもしれない。
「……私、……バカみたい」
その時、脱衣所の扉が開く音がした。
カナはびくっと肩を震わせ、顔を上げる。
コウタはバスタオルで髪を拭きながら、リビングに戻ってきた。
首筋には、まだ昨日カナが吸い付いた痕が赤く残っている。
彼はリビングの匂いを嗅いで、少し顔をしかめた。
「……まだ臭いな。換気扇、回しとくわ」
「…………」
カナは何も言えなかった。
コウタはキッチンに向かい、換気扇を回す。あの甘ったるい匂いが、徐々に外へ吸い出されていく。
(……私の“証”が、消えていく……)
「……なあ、カナ」
コウタが振り返る。
カナは俯いたまま、返事ができなかった。
「……お前、今、すげえ顔してるぞ」
「……別に。……何も、ない」
声が震える。悔しいのか、悲しいのか、恥ずかしいのか——自分でもわからなかった。
コウタはバスタオルを椅子に掛け、カナの隣に座った。
彼の体からは、さっぱりとした石鹸の香りがする。カナが必死に刻んだ“自分の匂い”は、完全に消え去っていた。
「……お前、さっき『どうすればあんたを壊せるか』って言ってたな」
「……それが、何か」
「いや、壊すって……。お前、最初からそればっかだな」
コウタはそう言って、カナの頭に手を置いた。
「……別に、俺を壊さなくてもいいのに。……お前のままで、十分だよ」
「…………っ」
カナはその言葉に、顔を上げることができなかった。
(……また、それだ。……この男はいつもそうだ。私の“テクニック”を全部無効にして、私の“計画”を全部頓挫させて、……そのくせ、そんなこと言う……)
「……あんたのバカ。……私、あんたのこと、……支配したかったのに」
「支配? お前が?」
コウタは軽く笑った。
「……無理だろ。お前、俺のこと吸いつくたびに『酒臭い』って言われるの、毎回めっちゃ嫌そうな顔してるし」
「……っ!」
「それに、香水だって……。やりすぎて、自分で落ち込んでるし」
「……うるさい! うるさいうるさいうるさい!」
カナはコウタの胸を叩いた。
コウタは「痛い痛い」と言いながらも、その手を止めようとしない。
「……だって、……だって私は、……あんたに、私のこと、忘れられたくなくて……。私の匂いで、あんたの記憶を、全部塗りつぶしたくて……!」
「……だから、そんなに必死に香水撒いたのか」
「……そうよ。……それが、アンカリングなんだから……!」
コウタはしばらく黙って、カナの頭を撫でていた。
「……なあ、カナ。……そんなに必死にならなくても、俺はお前のこと、忘れねえよ」
「……嘘。……あんた、実家に帰ったら、すぐに私のこと忘れるくせに……!」
「忘れてねえだろ。……ちゃんと胸肉、買ってきてやったし」
「……それは、……」
「それに、お前の酒臭い息も、吸いつきの痕も、全部、ちゃんと覚えてる」
コウタは自分の首筋に手を当て、まだ残る吸い痕を撫でた。
「……これ、まだ痛むしな」
「……っ」
カナは顔を赤らめて、コウタの胸に顔を埋めた。
「……あんたのバカ。……変態。……私のこと、からかってるでしょ」
「からかってねえよ。……本当のことだ」
コウタの声は、いつもより少しだけ優しい気がした。
カナはその胸に顔を埋めたまま、小さな声で言った。
「……私、……あんたに、嫌われたらどうしようって、……ずっと、怖かった」
「……知ってる」
「……あんたが実家に帰って、そのまま戻ってこなかったらどうしようって、……ずっと、ずっと、怖かった」
「……うん」
「……だから、あんたを壊したかった。……私以外、誰も受け入れられない体にしたかった。……そうすれば、あんたは私から逃げられないから……」
コウタは何も言わなかった。
ただ、カナの頭を撫で続ける。
「……なあ、カナ」
「……何よ」
「……お前、そんなに怖がらなくても、俺はどこにも行かねえよ」
「……証拠は?」
「証拠?」
「そうよ。……あんたが、私から逃げないって証拠。……ちゃんと、見せなさいよ」
カナは顔を上げ、コウタの目をまっすぐに見つめた。
コウタは少し困ったように笑い、そして——彼の唇を、カナの額にそっと押し当てた。
「……これで、十分か?」
「…………っ」
カナの全身が、一瞬で熱くなる。
「……足りない」
「じゃあ、もう一回」
コウタは今度は、カナの頬に唇を寄せた。
「……まだ、足りない」
「……わがままなやつだな」
コウタはそう言って、カナの鼻先に軽くキスをした。
「……これで最後だぞ」
「……やだ。……もっと」
カナはコウタの首に両腕を回し、自分の唇を、彼の唇に重ねた。
今度は、吸いつくような執拗さじゃない。
ただ、触れるだけの、優しいキス。
「……これで、あんたも、私の証拠、刻まれたわね」
「……そうだな」
コウタは照れくさそうに笑い、カナの頭をわしゃわしゃと撫でた。
カナはその腕の中に、これまでにない“安心”を感じていた。
(……テクニックは、全部失敗した。……返報性も、オーバー・ジャストも、バックトラッキングも、ミラーリングも、アンカリングも……全部、彼には通用しなかった。……でも、……彼は、「行かない」と言った。……それだけで、十分だった……)
部屋には、まだ微かに香水の匂いが残っている。
けれど今は、その甘ったるさも、悪くないと思えた。
「……ねえ、コウタ。……明日も、胸肉買ってきてくれる?」
「……ああ。約束するよ」
「……じゃあ、今日は、もう吸わないであげる」
「……お前なあ」
コウタは呆れたように笑い、カナを抱きしめる腕を強くした。
カナはその胸の温もりに、目を閉じた。
(……テクニックなんて、いらなかった。……私が欲しかったのは、ただ、これだけだったんだ……)




