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第四十六話:『反芻の檻、あるいは鸚鵡の呪い』

 キッチンで急須にお湯を注ぐコウタの背中に、音もなく「それ」が貼り付いた。

 安酒の匂いと、執着という名の熱。


「……ねえ、コウタ。今日の夜、何にするの?」


 カナはコウタの腰に両腕を回し、彼の背中に頬を押し当てた。


「ん? そうだな……昨日の胸肉、お前すげえ喜んでたから、また買ってきてやろうかと思ってたんだよ」


 コウタは特に何でもないことのように言う。

 カナの心臓が、大きく跳ねた。

 (……ここだ。動画の“返報性”を使うチャンス……!)


「あんた、私に胸肉を買ってきてくれるの? じゃあ、私もあんたに何か買ってきてあげる。……あんたの好きな酒、もう切れてたでしょ? ついでに買ってきてあげるわ」


 カナは動画の教え通り、先に「与える」側に回った。

 コウタは振り返りもせずに軽く返す。


「お、いいのか? じゃあ、悪いな」


 (……よし。彼は“与えられた”ことで、“返さなければ”という義務感を抱いた。動画の通りだ……!)


「……ねえ、コウタ。昨日の胸肉、なんであんなに必死な顔で食ってたか、わかる?」


 カナはさらに次のテクニックに移る。動画の“オーバー・ジャスト”(過剰正当化)だ。


「……え?」



「あんたが、美味しそうに食べる私を見て喜ぶからよ。あんたが喜ぶ顔が見たくて、私はあんなに必死に……美味しそうに食べたの。全部、あんたのためなんだから」


 カナは意識して、声のトーンを甘く、ねっとりとさせた。

 コウタは急須をテーブルに置き、茶碗を二つ並べながら、軽い調子で返す。


「へえ、そうだったのか。……でも、美味そうに食うもん見ると、こっちまで嬉しくなるよな」


 (……彼は、“私が彼のために食べた”という事実を認めた。しかも、“嬉しくなる”と言った。これは完全に成功……!)

 カナの胸の内で、動画の女の声が勝利のファンファーレを奏でる。

 彼女は次のテクニックに移ることにした。

『相手の言葉を繰り返す“バックトラッキング”は、相手に深い安心感を与え、境界線を溶け合わせます』


「……ねえ、コウタ。『美味そうに食うもん見ると、こっちまで嬉しくなる』……あんた、そう言ったわよね。つまり、あんたは私が食べるのを見て、嬉しくなる。あんたは私に『食べさせたい』んだわ。私が食べれば食べるほど、あんたは喜ぶ。……だから私は、これからもずっと、あんたの胸肉を食べ続ける。あんたのために!」


 カナは動画の教え通り、コウタの言葉を自分の“武器”として反芻した。

 コウタは茶碗にお茶を注ぎながら、何でもない声で言う。


「そうだな。お前が喜んでくれるなら、また買ってきてやるよ」


 (効いてる……! 動画の通りだわ。彼は今、私との“シンクロ”に、心地よさを感じ始めている……!)

 カナの興奮はピークに達する。

 彼女は次のテクニック——“ミラーリング”に移った。

 コウタの呼吸のリズムに合わせて、自分の呼吸を整える。

 コウタが茶碗に口をつける。カナも自分の茶碗に口をつける。

 コウタが茶碗を置く。カナも茶碗を置く。

 コウタがため息をつく。カナもため息をつく。


「…………なんだよ、お前」


 コウタが振り返る。

 カナも同じタイミングで首をかしげる。


「なんだよ、あんた」



「……お前、なんで俺と同じことすんだよ」



「あんたがするからよ。……だって、私たちは“シンクロ”してるんだもの。ねえ、気持ちいいでしょ? 私と、同じ呼吸、同じ動き、同じ感覚。……これが、本当の“共感”よ」


 カナはコウタの背中に両腕を回し、さらに強く抱きしめた。

 コウタは「そういうもんか」とだけ言い、特にお茶を啜り続ける。

 (彼は、抵抗しない。私の“シンクロ”を受け入れている。これは、私のテクニックが完全に彼に浸透した証拠……!)

 カナの思考は、もはや動画の教えを超えて加速する。

 彼女はコウタの首筋に顔を埋め、彼の耳元でささやいた。


「……ねえ、コウタ。もっと“シンクロ”しない? あんたが言ったことを、私がもっと繰り返す。あんたがすることを、私がもっと真似る。そうすれば、私たちの境界線はもっともっと溶け合って、本当に一つになれる……。あんたの心も、身体も、全部、私と一緒になるのよ……」



「……そうか」


 コウタはただそれだけ言い、お茶を飲み続ける。

 その“無抵抗”が、カナの支配欲をさらに掻き立てた。


「……コウタ。……私のこと、どう思う?」



第四十六話:『反芻の檻、あるいは鸚鵡の呪い』(リメイク版)

(前段略:ミラーリングの攻防から継続)


「……コウタ。……私のこと、どう思う?」


 カナは上目遣いで、動画で学んだ「心を開かせる小首の角度」を維持したまま問いかけた。

 コウタは茶碗を持ったまま、少しだけ視線を泳がせる。

 その耳の端が、微かに赤らんでいるのをカナは見逃さなかった。


「どう思うって……。……そうだな。その、……一緒にいて、飽きないな」



「……え?」



「……なんだよ。……お前、たまに何考えてるか分かんなくて怖えけど、……でも、退屈しねえっていうか。……あー、もう、何言わせてんだよ」


 コウタは照れ隠しに、一気にお茶を飲み干した。

 その「照れ」を含んだ拒絶。

 カナの脳内で、恋愛指南動画の『肯定』という言葉が、猛毒の蜜となって弾ける。

 (彼は、“一緒にいて飽きない”と言った。これは、“ずっと一緒にいたい”という意味だ。彼は無意識に、私への“永遠の愛”を告白している……!)

 カナの思考は、もはや完全に妄想の領域へと突入していた。

 動画の女の声は、彼女の中で自分自身の声と融合し、止めどなく言葉を紡ぎ出す。


「……コウタ。……あんた、私のこと、好き?」



「……。……まあ、嫌いだったらここにいねえよ」



「好き、なのね? 世界で一番? 宇宙で一番?」



「……。……まあ、そういうことになるんじゃないか?」


 コウタは顔を背けながら、ぶっきらぼうに、けれど確かに頷いた。

 その僅かな狼狽が、カナにとっては「降伏」の証に他ならなかった。

 (彼は、“宇宙で一番”を認めた。照れながら、私に白旗を上げた。これは、“私以外の誰も見えない”という誓いだ。彼はもう、完全に私のものだ……!)

 カナの呼吸が、荒く、熱くなっていく。

 彼女はコウタの首筋に鼻を押し当て、彼の拍動を自分の鼓膜で確かめる。

 ドクンドクンと打つその音が、自分の心臓の音と重なって聞こえた。


「……あんた、私のもの……。……私だけのもの……!」


 カナはコウタの肩を掴み、無理やり彼の体を回転させた。

 そして、至近距離から、彼の瞳を見つめる。

 


「……な、なに……?」


 コウタが動揺に目を見開く間もなく、カナは彼の喉仏のあたりに顔を埋め、深く、執拗にその匂いを吸い込んだ。


「……くんっ……すぅ……」


 彼の皮膚の温度、洗剤の匂い、そしてその奥にある、彼という生き物の生臭さ。

 それらすべてを肺に閉じ込め、自分の執念で塗りつぶしていく。


「……お、おい、カナ……っ! 急にどうしたんだよ……っ!」


 コウタの戸惑い混じりの熱い吐息が、カナの髪を揺らす。

 しかしカナは離れない。むしろ、さらに強く抱きしめ、彼の鎖骨のくぼみに顔を擦り付けた。


「……すぅ……はぁ……あんたの、匂い……っ!」



「……酒臭いって! お前、飲みすぎだろ……!」



「うるさい! これは、あんたへの上書きよ! あんたの中に、私の執念を染み込ませてあげる……っ!」


 カナはようやく顔を離し、恍惚とした表情で彼を見上げた。

 コウタは顔を真っ赤にしたまま、呆然と首筋をさすっている。


「……証。……あんたが、私のものだって証。……これで、あんたは私から逃げられない」



「……お前なあ……」


 コウタは呆れたようにため息をつき、首筋を手の甲で拭った。

 その指先が僅かに震えているのを、カナは愛おしく、誇らしく眺めた。


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